文脈が異なるとコミュニケーションは難しい
昨日のこのブログ「ルーザーを作ろうとする人」でコミュニケーションのことを書いた。
コミュニケーションはとても大切だし、コミュニケーションの取り方でその人のことがわかる場合も多い。
ただ、学校やスポーツのチーム、職場や地域など、同じような人達とずっとコミュニケーションを取っていると、たまに違う人達と出会うと、戸惑うことがある。
それは、日本で生まれ育った人がニュージーランドに留学に来た時にも感じることだと思う。
なぜそんなことを今この場で言うのだろうとか、この人が言ったことだけが理解できないとか、そもそも話の流れがわからない、などという経験をする。
文化の違いとか英語と日本語の違いとか、そんな説明もできるけれど、簡単に言えば、自分の文脈と異なる文脈でコミュニケーションをしている人がいる、ということだと思う。
コミュニケーションのそもそもの前提が違う、重要だと思っている点が違う、相手に期待していることが違う、知識や経験の範囲が違う。そんな人達が集まってコミュニケーションを取ろうとすると、そのままではなかなかうまくいかない。それは、文脈が異なるからだ。
文脈が異なるというのは例えば、空気など読まない人達の中で一人空気を読もうとしている人がいる場合、その一人は違う文脈でコミュニケーションを取っていると言えるだろう。また例えば、みんなのために何かをしようと知恵を絞っている時に、自分だけの利益を考えている人がいれば、その人は違う文脈でコミュニケーションをしていることになるだろう。
も少しわかりやすくするために極端に言えば、例えばロード・オブ・ザ・リングという映画に突然スーパーマンが現れて、「この指輪、僕が捨ててきてあげるよ」と言って指輪を掴んで飛んでいったら、問題はすぐに解決するだろうけれど、映画全体が台無しだ。ロード・オブ・ザ・リングの文脈の中でスーパーマンは違う文脈から出てきた異物でしかない。
「変なたとえだ。ロード・オブ・ザ・リングにスーパーマンが出てくるわけがないだろう」とおっしゃる方もいるかもしれない。確かに、映画のDVDを100回見直してみても、スーパーマンのスの字も出てこない。もし「3回目に私がDVDを見た時にはスーパーマンが捨てに行ってた」という方がいれば、そのDVD自体を捨てに行く旅に出る必要があるだろう。
けれど、現実のコミュニケーションでは、みんなで一所懸命指輪を捨てに行く旅をしている時に、スーパーマンに助けてもらおう、という人が実際にいるのだ。全く違う文脈から突然何かを引っ張ってくるようなコミュニケーションをする人がいる。
留学生活に限らず、「あれ?どうもうまくコミュニケーションが取れないなぁ」と感じたら、いいとか悪いとかではなく、それは自分も含めて誰かが、全く異なる文脈でコミュニケーションをしているからかもしれない。
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