不便な社会で暮らしてみると

日本はニュージーランドと比べると、とても便利だ。

コンビニエンスストアはほとんどどこでも徒歩圏内にあるし、電車やバスも時間通りに来るし、夜遅くまで多くの店が開いているし、土日でも祝日でもクリスマスでも年末年始でも買い物ができるし、「うわぁ、不便!」と感じることはほとんどないのではないか。

それに比べると、ニュージーランドの特に小さな町ではそもそもコンビニエンスストアなどないし、電車は限られた都市にしか走ってないし、公共バスも6時頃で終わったりするし、ほとんどの店は特別な日を除いて5時に閉まるし、クリスマスはどこも開いてないし、「不便だ」と感じることが多い。

だから、ニュージーランドで暮らしていてたまに日本に行くと、夜5時前になったら、「早く行かないと店が閉まってしまう」などとつい考えてしまうし、日曜日の午後なども「まだ買い物できるかな」と思ってしまう。そして周囲の日本の人達に怪訝な顔をされて、「ああ、日本ではそんな心配しなくてもいいんだ」と改めて思う。

そう考えてみると、便利というのは、心配しなくてもいいということでもあり、心配しなくてもいいということは、社会と関わりを持つときにあまり多くのことを考えなくてもいい、ということなのだろうと思う。

逆に不便なニュージーランドで暮らしていると、店が開いている時間をいつも気にしていなければならないし、5時前に店に行って「もう閉店です」などと言われると、「なんでだ!」と感じてしまう。

でも、この「なんでだ!」という怒りとともに発せられる問いが結構重要で、それに対する一番ストレートな答えは、「働いている人も家に帰るから」であり、「ニュージーランドはそんな社会だから」だろう。

もう少し言えば、「不便だ」と感じることで、その後「なんでだ!」という問いが出てきて、その先に、そこで働いている人達のことや、自分が暮らしている社会がどこでバランスを取っているのか、などに目を向けることにもなる。

だから、不便な社会で暮らしてみると今まで見えなかったものが見えてくるのではないか、などと無理矢理考えてみる。

キックオフNZのSNS