過去と将来を考える
毎日毎日何かを考えながら生活をしているのだけれど、例えば夜寝る前に、「一体今日は何を1日中考えていたのだろうか」と考えてみると、何も思い浮かばなかったりする。まあ、それは私みたいに1日中ボーっと過ごしている人間だからなのかもしれない。多くの人は、「今日はこんなことをずっと考えていた。」とか「昼間はこれだけのことを考えた。」という何かがあるのかもしれない。
こんな私でも、自分の考えていることを知りたいと思って、注意して自分は今、何を考えているのか観察してみた。私は比較的多くの時間を、過去のことについて考えていることがわかった。今のことでもなく、将来のことでもなく、過去に起こったことや感じたことについて考えている時間が最も長い。そしてその次に将来のこと、そして今のことと続く。今この瞬間を生きているにもかかわらず、意外と今のことは考えていなくて、過去や将来のことを考えるのに時間を費やしている。
でも考えてみると、過去のことというのはそのほとんどが自分の記憶の中にある単なる「情報」だ。言い換えれば、今、目の前にある事実では決してない。そこには記憶違いもあるだろうし、主観も入っているだろう。だから、過去のことを考えるという行為は、自分の頭の中にある情報について考える、ということだ。
そう考えると、過去について考えることに時間を費やすのは、どうも無駄が多いような気がする。それは、自分の頭の中の情報を自分でいじくりまわしている時間だからだ。
同じように、将来について考えることも、自分の頭の中にある情報について考える、ということだ。なぜなら、将来のことはまだ起こっていないことであり、自分の頭の中にある情報だからだ。だから、将来のことについて考えるということも、無駄が多いように思う。それは過去について考えることと同じように、自分の頭の中の情報を自分でいじくりまわしている時間だからだ。
過去とか将来というのは、目の前に存在しているものではなくて、極端に言えば、自分の頭の中だけにある情報に過ぎない。だからそれについて考えるという行為は、自分の中で完結していて、外部に働きかけるものではないし、外部から働きかけられているものでもないだろう。つまり、どこかの脳科学者の言葉を借りれば、過去も将来も幻想に過ぎないのだ。
その幻想について一生懸命時間をかけて、ああだこうだと考えるというのは、どういうことなのだろう。決して建設的ではないだろうし、時間の無駄なのかもしれない。しかも、過去や将来について考えている時は、それらの情報はいかにも事実であるかのように感じている。そして単なる情報を事実と感じることで、今の自分にプレッシャーをかけたり、今の自分の感情を高ぶらせたりしている。それはなんだか滑稽な行為でもある。
過去も将来も単なる情報(=幻想)だと考えると、やはり「今」の大切さが浮き彫りになってくる。本当は「今」この瞬間も情報であるという考え方もあるようだが、そこまで行くと分けがわからなくなるし、そんな不確かな状態を意識し続けながら生きていくのは難しい。だが、過去や将来を単なる情報と意識することで、より強く今に焦点を当てることはできるし、今考えるべきこと、今やるべきことも見えてくるのではないだろうか。
しばらくは、過去と将来についていろいろと考える時間を減らしてみようと思う。
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