自分の頭で考える

先日、ロトルアの高校の授業を見学した。

先生が何か質問をする。その質問は誰か特定の生徒に向けてなされたものではなく、全体に向かって問いかけられたものだ。そうすると、生徒の何人もがその質問にどんどんと答えていく。「それは、○○ではないですか。」とか「私はこう思う。」とか、「質問をもう一度言ってください。」とか、先生に当てられなくても、どんどん生徒が発言する。中には明らかに質問の意図とは違った答えを言う生徒もいた。けれど先生や周りの生徒はそんな答えに対して、笑ったり、間違いだと指摘したりはしない。一つの答えとして授業の中に組み込まれていく。

おそらく日本だとこういう授業の展開にはならないだろう。先生が全体に向かって質問を投げかけても、ほとんど誰も答えないだろう。まして、私はこう思うとか、質問の意図と異なることを言う生徒は少ないだろう。

何故だろう。どこが違うのか。

おそらく日本では、質問に対する答えというのは、たった一つの正解があって、先生の質問にはそのたった一つの正解を必ず答えなければならない、という暗黙の了解が生徒にも、そして先生にもあるのだろうと思う。だから、生徒達は質問を投げかけられたその瞬間から、たった一つの正解を探し始める。そして、正解が見つからないとなかなか答えようとしない。また、ひょっとしたらこれが正解かもしれない、ということも、なかなか答えられない。なぜならもし間違っていたら、周りの生徒達や、時には先生からダメだしをされる恐れがあるからだ。

つまり、日本では、質問に対する答えは正解が一つ決まっていて、その正解を探せないものは非難される。だから教室で先生の質問に、自らみんなの前で発言をすることが難しい。

確かに、ペーパーテストで生徒全員の解答に得点をつける場合は、一つの質問に一つの正解があるほうが、採点は容易だろう。正解が複数あったり、それぞれの解答をゆっくりと吟味して採点したり、そもそも正解がなかったりすると、採点して得点をつける、という行為はかなり難しくなる。つまり、一つの質問に一つの正解という図式は、採点する側の先生にとって都合のいいようになっているのだ。

でも、先生にとって都合のいいことが、生徒達にとってもいつも都合がいいとは限らない。一つの質問に一つの正解、というのは、多様な考え方や積極的な発言とは相容れない場合も多い。そしてそれが繰り返されれば、一つの質問には必ず正解が一つあるのだ、という態度を身につけてしまう生徒も出てくるだろう。それが進むと、社会に出てからも、何か質問や疑問があれば、それに対する正解が必ず一つ存在する、もっと言えば、一つの正解以外は全て間違っている、という態度で行動するようにもなりかねない。

高校留学生や若いワーキングホリデーなどを見ていると、自分の行動や考え方、疑問や悩みに対して、必ず正解が一つあると考えているのではないか、と思うことがある。自分の疑問や悩みを相談した後、「これでいいでしょうか。」とか「何が正しいのでしょうか。」などと言う学生も多く、常に正解を求めようとしているように感じる。

でも、人生の疑問や悩みに一つの正解など存在しない。どれも正解であるし、どれも正解ではない。そもそも、正解とか正解ではないとかいう基準もない。いろんな人に相談するのもいいが、結局は自分で考えて、自分で判断して、自分で行動しなければならないのだ。そして、その力をつけるのが、学校であり、また留学でもある。自分で考える力、判断力、行動力をつけるために勉強していると言っても過言ではないだろう。

一つの質問には必ず一つの正解が存在する。そんな幻想は捨てて、とにかく自分の頭で考える力をつけることが大切なのだと思う。

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