王様は裸だ!と叫んだ子どもはKYだ

2年ほど前にこのブログで、KYでかまわない、というタイトルの記事を書いた。

「今の若い人達はKYといわれることを想像以上に恐れている。確かに、周りの空気を読むことは大切だ。人と強調して物事を進めていくことはチームワークにもつながる。しかし、過度にその場の空気だけを気にして、それに自分を合わせることは、逆にチームワークにマイナスに働くだろうし、自分自身も楽しくない。」

「だから、空気が読めなくてもかまわないではないか、とあえて言いたい。空気を読むことばかり気にかけている人よりも、空気なんか読めなくても、自分の空気をその場で強く出している人のほうが、魅力を感じることも多い。」

「だから、KYでいいじゃないか。自分がKYでもその場の誰かがKYでもいいじゃないか、と言いたい。そして、空気を読むのではなくて、ほんとうは、その場にいる人、一人ひとりの異なった気持ちや考えを読むことが必要だと思う。そのためには、暗黙の了解やあうんの呼吸以外に、言葉や態度でコミュニケーションをとることが必要なのだと思う。」

それから2年。KYという言葉は若い人達だけではなく、ある程度の年齢層の人達にもすっかり定着した。もちろん褒め言葉ではない。「あの人KYですごいね、尊敬しちゃう」などとは言わない。もしそんなことを言っている人がいれば、それは皮肉でしかありえない。そして、人々はいつも空気を読もうと努力して、空気が読めない人を批判し、空気が読めた自分に安心する。

でもそんな雰囲気だからこそあえて、KYでいいじゃないか、と言いたい。

裸の王様に向かって、「王様は裸だ!」と叫んだ子どもは、明らかにKYだ。王様を初め家来やパレードを見ている大人たちはみんな、王様が何も着ていないと思っていながら、「人にばか者だと思われたくない」という理由で王様の衣装を褒め称えていた。周りの人がみんなそう言うから、周りの人と違う行動をしたくないから、周りの人に変な奴だと言われたくないから、周りの空気がそうだから、裸で歩いている王様の衣装を褒め称えていた。

でも、一人のKYの子どもが「王様は裸だ!」と叫んだ後は、人々も「そうだそうだ」と同調する。これも空気を読んだ行動だ。たった一人のKYは、真実を叫んだ子どもだけだ。

だから、「王様は裸だ!」と叫んだ子どものように、たまには自分がそうだと思ったことを、空気を気にせずに口にしてみてもいいのではないかと思う。最初は大きな声で叫ぶということはできないかもしれない。でも、「あの王様、裸じゃね?」と隣の人の耳元で小声でささやくことくらいはできるかもしれないし、「あのぅ、皆様はどう思っていらっしゃるのかわかりませんが、私は王様は裸だと思うんですけど、いかがでしょうか」という提案くらいはできるだろう。

KYが批判され排除されるだけの世の中では、王様はいつまでも裸でパレードを続けなければならない。

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