おにとあかんぼう

「おにとあかんぼう」という絵本を読んだ。

むかし、山奥の岩穴に一人で住むおにが、さみしくなって、捕まえたうさぎや鳥を持って村へ行ったけれど、村の人達は「わあ、おにだ」と逃げ出した。何日か経っておにはまたさみしくなって、たくさんのうさぎやとりを持って村に行ったけれど、村の人達はまた逃げ出した。怒ったおには人々が逃げ出した村の家に入って、部屋を壊した。村はずれの家にはいると、赤ん坊が一人で寝ており、おにの顔を見ると、にこっと笑った。おには牙をむき出して脅かしたが、赤ん坊はさらにけけけっと笑う。そのかわいらしさに、おには立ち上がって踊りだし、赤ん坊も手を広げてふった。おには踊りながらうれしくて涙がぽろぽろこぼれた。おには赤ん坊の頭をそっとなぜると家を出て行った。それからはおにはもう二度と村で暴れようとは思わなかった。

という話だ。

大人たちは、おに=怖い、悪い、という先入観があるので、友達になりたいと思ってたくさんのお土産を持ってきたおにに対しても、わあ、おにだ、と逃げ出し、赤ん坊は先入観がないので、おにの顔を面白がって笑った、と読むのが一般的だろう。

でも、急いでいてもきちんと自分の赤ん坊は忘れないようにしましょう、という親に対する警鐘をならす物語だとも読めるし、お土産を持っていくのであれば相手のことを考えて選んで持っていきましょう、という話だとも言えなくはない。あるいは、そりゃ、おにがいきなり村にやってきたら、みんな逃げるよ、大人は悪くないよ。おにもきちんとアポイントを取ってから、それなりの格好をしていくべきだ、と社会人としてのマナーを喚起する物語だとも言えるかもしれない。

いずれにしてもこの物語に出てくるおにや大人達には、何か欠けている部分や気づいていない部分がある。おには、村人達に接する方法をもう少し考えなければならないだろうし、村の大人達も、おにが来たというだけでいきなり赤ん坊を残して逃げ出すのは、少しやりすぎだ。

だからといって、おにが来たときに村の大人達が、「おにさん、いらっしゃい。お待ちしていました。一緒に食事でもいかがですか。」というのもかなり変だ。それでは、おにがおにである意味がなくなってしまうし、いきなり来たおにに優しく接するというのも、一般常識としては違和感がある。その上そんな話の流れでは、赤ん坊の出番がない。おにとあかんぼう、というタイトルに偽りあり、と言われてしまう。

でも、おにが前日にアポイントをとって、「明日の朝うさぎととりを持ってうかがいます」などと言っても、村の大人達は半信半疑だろうし、いざおにが来ても、どうしていいかわからないだろう。なぜなら、おにを「おに」と呼んでいるのは、おに自身ではなくて、おそらく村の大人達が名づけたからだ。もしおにが自分のことをおにと呼んでいるのなら、いきなり村にうさぎやとりを持って訪ねていったりしないだろう。その行動に対する村人達の反応は予想がつくからだ。

ということは、ここに出てくるおには、自分のことをおにだとは思っていないのだ。ただ村人達はみんな、おにのことをおにと思っている。そう考えると、山奥の岩穴に一人でさみしく暮らしているこのおにの、今までの人生に思いを馳せてしまう。そして村人とおにの間に過去に何があったのか、そこがこの物語の最大のポイントだとも言える。

もし、過去に村人とおにの間に何かあって、おには自分のことをおにとは思っていないけれど、村人達はみんなおにだと思っているのであれば、村の大人達が、そのおににたいして、おに=怖い、悪い、という先入観を持つのは当然だとも思えるし、あかんぼうはただおにの過去を知らないだけだったともいえる。

では、先入観は過去の経験だけから来るのか、というとそうでもない。誰かから聞いたことや、何かで読んだこと、どこからかの情報などをもとに、人は簡単に先入観を持つ。事実とか偽りとかそんな基準とは別のところで、先入観は生まれる。だから、ひょっとしたら、過去に村人とおにの間にはなにもなかったのだけれど、何らかの理由で村人はおにのことをおにと呼ぶようになったのかもしれない。もしそうであるのあらば、山奥の岩穴に一人でさみしく暮らしているこのおにには、とても同情する。

でも、おにが村の大人達からおにと呼ばれている以上、おにがいきなりやってきたら村人達は逃げるだろう。おにや大人たちに何か欠けている部分や気づいていない部分があるのではなくて、おにがおにと呼ばれたその瞬間から、物語はこうなることが決まっていたのだ。

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