変はほめ言葉
このブログでも何度か書いたけれど、ニュージーランドはマルチカルチャーの国だ。いろんな文化を持った人達が、それぞれの文化を持ったまま暮らしている。もともとマオリとパケハ(ヨーロッパ系)の2つの文化が存在する国だったところに、アジアなどのまた異なる文化を持った人々が入ってきて、マルチカルチャーの国になった。全人口が440万人、最大の都市オークランドの人口が130万人程度なので、例えば4万人の異なる文化を持った人達が移民してくれば全人口の約1%が異文化の人達となり、その影響は大きい。
マオリやパケハを含めた人口440万人のマルチカルチャーの国が、まとまって一つの国として進んでいくためにはどうすればいいか。みんな同じ一つの文化にしてしまう、という方法も確かにあるだろう。でも、もともと2つの異なる文化を持つ国なので、それはではうまく行かない。だからニュージーランドの人達は、異なる文化を持つ人達を、異なるものとしてそのまま受け入れる、という方法を取る。
異なる文化を受け入れるとき、まずは理解しようと努力する。でも異なる文化を完全に理解することは難しい。そのときは、理解できない部分も含めて受け入れる。異なる文化が一つの国に存在していても、たとえ自分がその文化を全て理解できなくても、受け入れてニュージーランドとして進んでいく。
だからニュージーランドでは、それぞれの人が「異なる」ことが当たり前、前提だ。同じでなければいけないなどと考えると、異なる文化の中で生活はできない。みんなそれぞれが異なる文化を持っているところから話は始まる。そして、「あれっ、私と違う。」と感じる人と出会っても、「おそらくこの人は異なる文化をバックグラウンドにしているのだ。異なっていて当たり前なのだ。」と考えて接していく。「私と違うので、この人はだめだ。」とか「私と違うので、この人は受け入れることも、理解することも、接することもできない。」などという態度は取らない。
そういう態度が基本にあるので、文化が異なるという状況ではなくても、自分と異なる他人も同じように受け入れる。そして、「人は一人ひとり異なるのだ」ということを前提として進んでいく。
日本では、周囲と少しでも異なっていると、「変」と言われることも多いだろう。「異なる」と「変」は本当は違うのだけれど、少しでも「異なっている」だけで「変」と言われ、「同じ仲間」から排除しようとする。
しかし、日本で生まれ育った人達も、実は一人ひとりは「異なる」のだ。ドッペルゲンガーでもあるまいし、自分と同じ人はこの世にはいない。でもなぜか、「みんな同じ」であると思い込み、「みんな同じ」であることを求め、「みんな同じ」で安心する。
そんな日本で息苦しさを感じている人も多いだろう。そして息苦しさや違和感を感じながら、周囲の「同じであること」に同調して生きている人もいるだろう。でも、一歩日本を出れば、例えばニュージーランドでは、「人は一人ひとり異なる」ということが前提だ。逆に周囲と同じであろうとすると、一人ひとりが異なるので、何が同じかわからずに混乱する。
だから、日本で「変」と言われても、そんなことは気にしなくてもいい。ニュージーランドではその「変」が個性として受け入れられる。その個性に興味を持ってくれる人もいるだろうし、他人と異なるその個性が好きだと言ってくれる人もいるだろう。「変」はほめ言葉なのだ。
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