「さよなら、おっさん。」を考える
先日日本で「さよなら、おっさん。」という広告が話題になっていた。
賛否両論があったようだけれど、この広告を出したNewsPicksのサイトでは、「さよなら、おっさん社会」という特集もやっている。
賛否が分かれたのは、「おっさんの定義」によるのだろう。「おっさん」という言葉をどうとらえるかということだ。
こんな広告が出てきてそれが話題になるのも、やはり日本が停滞しているからだろうと思う。バブルの頃のように行け行けどんどんの時代なら、おっさんにかぎらず、「さよなら」と言われる対象に注目は集まらないだろうし、多くの人は新しいことや明るい未来だけを見つめているだろう。
あまりうまくいっていない。明るい未来が見えない。それは誰のせいだ?と考えるところから、「さよなら○○」が生まれる。
NewsPicksでは、新しいことを学ばない人を「おっさん」と言っているようだけれど、おっしゃる通り、停滞している状態から抜け出すには、今あるものを守り続けるよりも、新しいものを取り入れることが必要なのは明らかだ。
ただ、全ての人が停滞している状態を抜け出したいと思っているわけではないのが難しいところで、新しいことを学んでも、そもそも停滞状態を望んでいるのなら、「おっさん」にはさようならと言えても、「おっさん社会」は残ったままだろう。
もっと言えば、今の日本の社会が停滞している状態で、かつそれを抜け出すことが必要だ、と理解することが、脱おっさん社会の前提だろう。
そして今自分が所属している社会が、どんな状態なのかを客観的に理解するためには、その社会を外から眺めてみるのが最も有効な手段の一つだ。その為にはやはり一定期間、その社会から離れて、異なる社会で暮らしてみるのがいいだろう。
そしてその上で、新しいことを学び、個人レベルでアップデートをして、停滞から抜け出す方法を考え、実践する。
そんなことが必要なのだと思う。
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