所属するということ(2)
先日、所属するということ(1)で、「今まで所属していたものを捨てる不安」を自分の中でどう処理するかということについて書きました。
日本を離れて留学する時、今まで自分が所属していたものを捨てるという視点から「漠然とした不安」を考えてみるのもいいのではないかと思ったからです。
でも反対に、所属していたいろんなものを捨てて留学に来た後、実はどうしても捨てられなかったものに向き合うことがあります。
留学する前は、外国に行って現地の人々と同じように生活している自分を想像します。同じように話し、同じように考え、同じように行動し、同じように食べ、同じように遊び、同じように働く。
確かに、それは可能です。海外で長く暮らしている人の中には、見かけこそ違っても現地の人々と同じように暮らしている日本人も数多くいます。しかし、数ヶ月~2、3年の滞在ではなかなかそういうふうにはいきません。
海外で暮らし始めた最初の頃よく聞かれるのが「君はどこから来たのか」ということです。外見がアジア人だと「他の国からやって来た」ことを前提として質問されます。特に現地の言葉があまり使えない場合は、初対面の人には必ず聞かれます。そして「日本から来た日本人だ」と答えると、それ以降は「日本から来てその国で暮らしている日本人」と相手はとらえます。
話題を振るほうは気を使っているのかもしれませんが、「日本ではどうだ?」とか「これは日本的なものだろう」とか「メイドインジャパンは・・・」とかいう話題を何度もされていると、やはり自分はこの国では「日本から来た日本人」として扱われているんだということを感じます。
また、「日本人としての意見や感想」を求められることも多いです。就いている仕事や環境にもよると思いますが、「日本ではどうなんだ」「日本人はこういう時はどうするんだ」などと聞かれることもあります。
そこには差別の感情はないと思います。ですが、所属という観点から言うと、「この人は日本から来た日本人だ」つまり、「日本という国、文化、民族、バックグラウンドに所属している人だ」と認識されているということです。
日本を出発する前に想像していた、現地の人の中に溶け込んで同じように生活する、つまり同じ視点でものを見るはるか以前に、現地の人に「君は所属が違う」と言われているように感じます。
そして、それは感じるだけではなく、実際に「日本という国、文化、民族、バックグラウンドに所属している」のです。留学生やワーホリ、数年の就労で滞在している人は特にそうです。「日本という国、文化、民族、バックグラウンドに所属」しながら違う国に滞在しているのです。つまり、「日本という国、文化、民族、バックグラウンド」の所属から抜け出せないのです。どこにいても「日本人としての自分」「日本から来た人間としての自分」と一緒に生きていかなければなりません。
それを否定しているのでもなければ、全ての人がそうだと言っているのでもありません。いいとか悪いとかいう基準でもありません。そんな単純な場合だけではないことも理解しています。
私の知り合いで、見た目は日本のおじさんなのに、聞いてみると「生まれは中国だけれど、大学はカナダで卒業後もしばらく働いていた。今はニュージーランドでニュージーランド人の妻と暮らしている。将来はオーストラリアに行く予定だ。パスポートはカナダとニュージーランドを持っている。」という人もいます。そんな人には、自分はどの国に所属しているのかということはあまり大きな意味がないのかもしれませんし、周りの人もこの人は「○○の国の人だ」というとらえ方はしません。
しかし、実際に日本から留学などで海外に来てみると、想像以上に自分が「日本から来た日本人だ」ということに気づかされることが多いことに驚きます。日本にいた時は自分が「日本という国、文化、民族、バックグラウンドに所属している」なんていうことは考えたこともなかった人でも、海外で生活を始めるとそれに改めて気がつきます。
これは一つの事実です。ポイントは、これを一つの事実だと捉えた上で、海外で自分はどう暮らしていくのか、周りの人々とどうかかわっていくのかということだと思います。
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