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時計がよめるようになったのは、何歳のときだっただろうか。私は子どもの頃からあまり頭がいいほうではなかったので、時計がよめるようになったのも他の子どもよりも遅かったと思う。5歳の娘も、最近時計を見ながら何時何分などと言っているが、私の娘だけあって、時計が何を表しているのかさえまだまだよくわかっていないようだ。

でもよく考えてみると、時計は時間を表しているのだけれども、時計は時間そのものではない。また普段私たちは、時計を通して時間を数字で理解しているけれども、時間そのものは数字ではない。

家族や友達、仕事仲間との会話では、当たり前のように、「昨日」とか「明日」とか「3時間後」などと言っているが、実際に「昨日」「明日」「3時間後」が何なのか、よくわからずに使っている。特に、「明日」や「3時間後」など未来に関することは、想像でしかない。なぜならまだ起こっていないことだし、ほんとうに起こるかどうか現時点では不確実なものだからだ。「明日」と言っている時点では、明日はどっちにあるのか、誰もわからない。

そして、明日が不確実なものだからこそ、未来に対する不安や恐怖が生まれる。未来には楽しいことが起こるかもしれないけれど、ひょっとしたら嫌なことが起こるかもしれない、という不安や恐怖。4月から給料が減るかもしれない、進級できないかもしれない、留学に行っても英語が伸びないかもしれない、留学先で友達ができないかもしれない。そして、また地震が起こるかもしれない、大学入試に合格しないかもしれない、などというのも、不確実な未来に対する不安や恐怖だ。

しかし、未来が不確実であればあるほど、嫌なことが起こる可能性も低くなると言える。なぜなら、未来は不確実なのだから、ネガティブなことが起こる可能性のほうが高いなどと誰も言えない。大学の入学試験も、受けてみれば合格するかもしれない。もっと言えば、恐れていたように不合格であったとしても、それ以降の未来が想像しているようなネガティブなものになるとは限らない。なぜなら未来は不確実なものなのだから、今想像している通りにネガティブには行かないのだ。未来は、ネガティブな想像に対しても、ポジティブな想像に対しても同様に不確実なのだ。

だから、未来に対する不安や恐怖、例えば、4月から給料が減るかもしれない、進級できないかもしれない、留学に行っても英語が伸びないかもしれない、留学先で友達ができないかもしれない、また地震が起こるかもしれない、大学入試に合格しないかもしれない、などというのは、全く不確実であり、言わば現時点での幻想でしかないと言える。

その幻想に対して感じる不安や恐怖もまた幻想である。だから、幻想である不確実な未来に対する不安や恐怖などというものに固執する必要は全くないし、そういう感情を持ち続ける必要もない。

明日はきっと何かある。でもそれが何なのかは誰にもわからないのだ。