自信なんかなくても
以前にもこのブログで書いたかもしれないけれど、自信には二つあって、一つは、過去の自分と比べて今の自分が成長したと感じられるときに持つことができる自信。もう一つは、他の人と比べて自分が抜きん出ていると感じられるときに持つことができる自信。
ただ、自信がこの二つだけなら、どちらも相対的なものになってしまう。もし自分の中から生まれてくる自分に対する感情が自信だとすれば、相対的な自信というのは矛盾している。だから、絶対的な自信というものがもしあるのなら、それが本当の自信ということにもなる。
親が子どもに、コーチが選手に、大人が若い人達に、「自信を持って行きなさい」などと言う。でも、「あなたは今までこれだけ努力したのだから、以前のあなたとは違うのだ」とか、「あなたの能力を持ってすれば、他の人達よりもいい結果が得られるよ」などという周囲の人達の言葉から生まれてくる相対的な自信なら、それは本当の自信ではないのかもしれない。
自信は自分自身の中から生まれてくるものだとすれば、周囲の人達が「自信を持ちなさい」ということ自体おかしい。
自信についてそんなことを考えていると、そもそも普段人々がこだわっている自信というものは、そんなに重要なものなのか、という気もしてくる。所詮相対的なものであったり、周囲の言葉から生まれてくるような自信なら、ここぞと言うときにその人を動かす強い力にはならないだろう。自分自身の中から生まれてくる絶対的な自信というものがあるのなら、それは自信という言葉で呼ばれなくても、もっと他の言葉があるだろうし、はたしてそんな絶対的な自信を多くの人は持つことができるのか、という気もする。
だから、自分はいつも自信がないんです、とか、自信がどうしても持てないんです、などという人が固執している自信など、大して重要ではないのかもしれない。言い換えれば、「自信を持とう」などと努力するのは間違っている。自信があろうがなかろうが、それはその人が今から向かって行く行為や結果には、さして影響しない。
自信なんかなくてもいいのだ。とりあえず目の前にやるべきことあれば、自分として精一杯のことをすればいい。自信があろうがなかろうが、何かの結果は必ず出るのだから。
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