違う他人を理解する

このブログでも書いたことがあるけれど、ニュージーランドで暮らしていて感じることは、人は一人一人違う、ということを前提に人々が暮らしている、ということだ。

自分と違う人種の人、違う国籍の人がいる。自分と違う感覚、違う考えを持った人がいる。自分ができることができない人、自分ができないことができる人がいる。自分とは違う人生を歩んできた人がいて、自分とは違う文化を持った人がいる。そして、自分のことを理解してくれない人、自分が理解できない人がいる。

自分も他人とは違うけれど、他人もみんなそれぞれ違う。それを前提に暮らしている。

違う人々が同じ国で暮らしていくために、ニュージーランドの人達は、他人のことを一旦受け入れようとする。「この人は自分とは違うけれど、この人の言っていること、この人の考え、この人の感性、この人の経験してきたこと、この人の文化を、一旦は受け入れよう」と努力する。

だから、同じだから言わなくてもわかる、のではなく、違うから言わないとわからない、という態度で他人に接する。だって違うのだから。理解できないことが前提なのだから。その人が自分のことを表現しない限り、他の人はその人を受け入れることは難しい。

そして、他人に対して、「あなたはそう考える、感じるのだろうけれど、私は違うことを考え、感じるのです」とはっきりと言う。だって、人は一人一人違うことが前提なのだから。あなたはそう考えて、そう感じるのですね、私も同じように考えて感じます、ということはなかなかない。違うのだから、一人一人。それが当たり前だ。

何も言わなければ、理解してももらえないし受け入れてももらえない。そして何か言ったとしても、「私は違う」と言われてしまう。これが、人は一人一人違うことを前提に暮らしていく、ということだ。

では、そこからどうするのか。最初は何も言えずに理解されず、何か言えるようになっても、「そうですか、でも私は違う。」と言われる。そこからがスタートで、そこからどうしようかと考えて行動する。

選択肢は二つあるように思えるだろう。一つは、違う自分を他人に何とか受け入れて理解してもらうように、努力することだ。その方法は時間をかければうまく行くかもしれない。

でももう一つの方法がある。それは、違う他人を違う自分がまず理解しようと努力することだ。

人は一人一人違う。その違う他人を理解しようと努力する。そのためには、自分と他人がいかに違うのかを改めて感じ、理解しなければならない。そして、その違いを前提に、違いを埋めるのではなく、違いを残したまま他人を受け入れて理解することが必要だ。

この経験は、日本ではなかなかできないけれど、ニュージーランドでは日常の中にいくらでもある。特に滞在の初期は、毎日のように起こる。

これが、留学の醍醐味であり、異なる文化、異なるバックグラウンドを持った人と生活をしていく基本的な力になる。

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