お金もただの情報
昨日のニュージーランドのLotto の最高賞金が3,000万ドルだったそうだ。
多くの人がこのLotto を購入したと思う。
Lottoを購入した人はおそらく、自分が3,000万ドル当たった時のことをどこかで想像しながら買っただろう。
もしかすると、映画やテレビドラマのワンシーンのように、3,000万ドルの札束に埋もれてニコニコしている自分を想像した人もいたかもしれない。
でももし3,000万ドルのLottoが当たったとしても、実際にたくさんの札束が手元に送られてくるわけではもちろんない。 実際には、自分の名義の銀行口座に3,000万ドルという数字が書き込まれるだけだ。
そしてそのお金を使う時でも、ほとんどキャッシュレスのニュージーランドでは、クレジットカードなどで買い物をしたり、インターネットバンキングで支払いをしたりするので、実際に3,000万ドルの中から現金を手にして、それを誰かに支払うという行為はほとんどない。
何かを買っても、銀行口座のお金がそのぶんマイナスになって、代わりに買った商品やサービスを手に入れるだけだ。
もし大きな豪邸を買ったとしても、具体的にはその豪邸を所有して居住する権利を得ることになるのだから、その豪邸という「ものを持つ」というよりも、それを自由に使用したり そこから収益を得たりそれを自由に処分したりする権利を得る、というのが実際のところだとも言える。
もしそうであるならば、Lottoで3,000万ドルが当たるということは、3,000万ドルという情報を銀行口座に書き込むということで、それを使って買い物をするということは、その情報を使って何かの権利(という情報)を得ることなのではないのか。
私は経済や法律にはうといけれど、こうやって考えてみると、お金を得てそれを使うという行為は、単に情報をやり取りしているだけだということになる。
では、その情報が、それだけの価値があるというのは、誰がどのように担保しているのだろうか。
国によって通貨も違うし、その時その時によって為替レートも違うので、二つの違う基準の通貨を使っていると、日々その相対的な価値も変わる。 最近は仮想通貨なども一般的になってきて、さらにその価値基準の不安定さや情報としての抽象度が上がっているようにも思う。
そう考えてみると、Lottoで3,000万ドル当たるということは、一体何が当たって、何を得て、それで何をすることができるのか。Lotto を買う時にワクワクドキドキするのは、何に対する感情なのだろうか。
そんなことをもう一度、根本的なところからゆっくりと考えてみるのも面白いかもしれない。
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