安部公房「死に急ぐ鯨たち」

久しぶりに安部公房の「死に急ぐ鯨たち」を読み返してみた。小説家安部公房のエッセイ、論文、インタビューなどが載っている。

その中で、「言語」について述べられているエッセイがあるが、アメリカの言語学者チョムスキーの「普遍文法」に関する記述が面白かった。
私は、言語学については全くの無知だし、チョムスキーの著作も読んだことがないので、本当に理解できているかどうかは自信がないが、ニュージーランドで英語と日本語を使って生活している者として、また、英語とマオリ語を第一言語とする国で日本語を習得し始めた2歳の娘を持つ親として、興味深いことが書いてあった。

「死に急ぐ鯨たち」によると、「「普遍文法」というのは、遺伝子レベルに組み込まれた、言語形成のための生得的プログラムのこと」で、地球上の様々な言語は、「それぞれが固有の文法を持っているわけですが、その固有の文法がけっして文化レベルに浮遊している空中楼閣なのではなく、「普遍文法」という生理的基盤にしっかり根を下ろしているという考え方」ということだ。簡単に言えば、人間は生まれ持って言語を習得するプログラムを体内(脳)に持っていて、全ての言語は、そのプログラムに沿って習得される。つまり、全ての言語は、そのプログラムに添った形でのみ作られている、ということだと思う。英語も日本語もマオリ語も、ある一定の「普遍」的な規則があり、それぞれの言語の持つ「固有」の文法は、普遍的な規則の上に形成されている、ということだろう。

日本語を母語としている人が英語を学ぶ時、全く新しい言語を学んでいるようで、実は、生まれながらにもっている普遍文法に基づいて、あるいは、脳の中にある普遍文法を刺激して学ぶことができるし、実際にそうしているのだと思う。子どもの頃、我々が普遍文法の上に、あるいは、普遍文法に沿って習得した日本語のように、普遍文法の上に、普遍文法に沿って英語を習得することができる。そう考えると、英語も必ず習得できるはずだ、と思えてくる。

また、すでに習得してしまった、固有文法を持つ日本語を使って英語を習得しようとするよりも、脳の中にある普遍文法を刺激しながら英語を学ぶ方が、言語習得のプロセスに沿っているようにも思う。言い換えれば、日本語を使って、英語を日本語に訳すとか、日本語の文章を英語で表現するとかいう方法よりも、英語で英語を学ぶという方法の方が、より、「遺伝子レベルに組み込まれた、言語形成のための生得的プログラム」を刺激するのではないかと思う。例えば、パソコンで、新しくFirefox というブラウザを使い始めようとする時に、今まで使っていたインターネットエクスプローラーとの違いを確認しながら使い方を覚えるよりも、とにかく、Firefox を使ってみてその機能を習得していくほうがいいという方も多いだろう。(例がわかりにくくてごめんなさい。)

幼児が言語を習得する時は、まず、一つの言語をある程度習得してから二つ目の言語を習得するほうがいい、という意見もある。その理由がよくわからなかったが、普遍文法の視点で考えると理解できるかもしれない。例えば、2歳児がまず日本語を習得する時は、脳の中にある普遍文法を使って固有文法を習得するという「経験」をする。コンピュータのOSに初めてソフトをインストールするようなものだ。そして、二つ目のソフトをインストールする時は、最初のインストールの経験が役に立つだろう。それと同じように、二つ目の言語を習得する時は、普遍文法に加えて、固有文法を持った言語を最初に習得した経験を使って行うのだと思う。だから、まず、一つの言語を習得するという経験があるほうがいい、という意見もあるのだろう。

「死に急ぐ鯨たち」の中には、他にも、ことばはデジタル信号で、閉じられたプログラムを開く働きをしているとか、ことばと集団の関係などが論じられていて、安部公房ファンのみならず、ことばに興味のある人、他言語を学ぼうとしている人などにも、面白いかもしれない。

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