どう判断して、どう行動するのか
先日、ロトルアの高校に留学している男子生徒と話をした。彼は、今年の3月に日本の中学を卒業してすぐにロトルアに高校留学にやってきた。卒業まで約3年間ロトルアに滞在する予定だ。
彼はもともと中学校でも英語は出来ていたほうで、しかも、高校に入学する前に数週間ロトルアの英語学校にも通ったので、高校での地元のニュージーランドの学生と一緒の授業も、比較的スムーズに入っていけたようだ。
その彼が、最近の体育の授業は難しい、と言った。体育の授業は、英語での会話が比較的少なく体を動かす内容が多いので、日本からの留学生にとっても、容易な科目の一つのはずだ。しかも、英語がよくできる留学生にとっては、大きな問題はないと思った。体育の授業が最近難しい理由を聞いてみた。
「最近の体育の授業では、それぞれが社会の中でどういう役割をするのかとか、リーダーシップなどについて勉強している。生徒みんなでディスカッションをするのに、なかなかついていけない。」という。また、
「例えディスカッションになんとかついていけたとしても、みんなで話し合ってそれで終わり、というのがなかなか理解できない。日本だと、話し合いがあっても、その後、何が正解で何か正解でないのかをみんなで検証する。でも、ニュージーランドでは話し合って終わりだ。それになじむことができない。」とも言っていた。
確かに、日本では、あらゆる授業、あらゆる場面で正解を一つ必ず求められることが多い。数学のようにきれいな解が見つかる学問だけではなく、例えば、話し合い、というようなことが行なわれても、何とか正解を一つ見つけようとする。だから、正解がない、話し合って終わり、という授業は、日本からの留学生にとっては、落ち着かないのだろう。
でも考えてみれば、学校を卒業して社会に出れば、正解がない、あるいは、正解が一つではないという場面にたくさん出会う。そこであくまでも正解を求めたり、たった一つに絞り込もうとしたりすると、先に進めなくなってしまう。正解がないとき、正解が複数あるときに、どう考えて、どう判断して、どう行動するのか。そういう訓練を学校で行なうことも大切だろう。
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