正解を求めすぎるな
日本からの留学生を見ていると、誰かに質問をされたときや、何かにリアクションをするとき、無意識のうちに「正解」を求めようとしていることがよくある。
例えば、スポーツのコーチがその日の試合について選手全員に感想を求めたとき、他の選手が何か答えると「いやいや、そうじゃないだろう。今日の試合は、こんなところが良くて、こんなところが悪かったんだ」と考えてしまう。つまり、他の選手が言ったことは「コーチが求めている答えではない」、言い換えると「正解ではない」と考えてしまう。
でも、実際にコーチが求めているのは、「正解」ではなく、一人一人の選手がその日の試合についてどう感じ、どう考えたかということだ。そこに「正解」という考え方自体がない。
また例えば、何かの申し込み用紙に必要事項を記入するときでも、この項目には必ずこの記載をしなければならないと考える。もちろん、ほとんどの項目では、例えば名前や住所などは、求められるものは一つだろう。それが「正解」と言えば言えなくもない。
でも、中には住所を2つ持っている人もいるし、通称とパスポートに記載されている名前が違う人もいる。また、性別や年齢の記載が求められたときに、それを記載しないという選択をしたい人もいるだろう。
ところが、「2つ持っている住所のどちらを記載することが「正解」なのだろうか」「通称とパスポートに記載されている名前のどちらを書くのが「正解」なのだろうか」「性別や年齢の記載が求められているのだから、それを記載しないというのは「正解」ではない」などと考えてしまう人も多い。
でも、実際に住所を2つ持っている人は、どちらか一つ自分で選んで書けばいいし、その申し込み用紙には通称を書きたいと思えば通称を書き、また別の申し込み用紙にはパスポートに記載されている名前を書きたいと思えば書くということも、ニュージーランドでは受け入れられることも多い。
年齢や性別の記載が求められても、「私はそれを書きたくないんです」と相手に伝えることで、求められている項目をすべて書いて提出しなくてもかまわないということもある。
これはほんの一例だけれど、相手が自分に対して何をして欲しいのか、それに対して自分は何をすればいいのか。つまり「正解」は何なのかを考えてリアクションをするのではなくて、相手が何を求めているのかを理解しながらも、自分はどうしたいのか、自分はどう考えて、どう判断し、どう行動するのか。つまり「正解」は何なのかを考えずに、自分はどうしたいのかをまずは考えて、判断し、行動する。
そういうことがニュージーランドでは求められることが多いように思う。
だから、日本で誰かに質問をされたときや、何かにリアクションをするとき、実は無意識に「正解」を求めようとしている自分がいることに気づいて、実はそうしなくてもかまわない、「正解」自体がないこともたくさんあるのだ、ということを、経験の中から学んで身につけていく。
それも、ニュージーランドでの留学から学ぶことの一つだと思う。
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