ニュージーランド現地無料留学エージェント

「ニュージーランドでボートビルディングの資格と取ろうと思い、まず、語学学校に通いました。その資格を取ろうと思っているのは学校に私一人でした。友達は、「そんなにがんばらなくてもいいじゃん。一緒に遊ぼう。」といつも私を誘い、結局私は、その資格を取るコースに入るだけの英語力がつかないまま帰国することになりました。その友達は今でも学校にいます。その友達さえいなければ、
今頃あこがれの資格を取っているかと思うと、彼のことが憎くてたまりません。」

「ワーホリでバックパッカーでエクスチェンジしていました。私は将来日本でバックパッカーズホステルをやりたいと思っています。そこでそこのオーナーに、「ずっと働きたいのでワークビザをサポートして欲しい」と言うと二つ返事でOKしてくれました。書類を揃え移民局に提出しましたが、結局却下されてしまいました。どうもオーナーが就労ビザのことをあまりわかってなかったようです。わからないなら安請け合いしないでほしい。私の人生計画が大きく崩れました。この責任はどう取ってくれるのでしょうか。」

大きな目標を持ってそれに向かって進んでいる時に、いろんなことが起こります。足を引っ張られるようなこと、行く手をふさがれるようなこと。その目標が大きければ大きいほど「抵抗」も大きく感じます。

そしてその「抵抗」によって、自分の当初の目標が変わったり、達成できなかったり、うまく進まなかったりします。そんな時、うまく行かないのは全てその「抵抗」のせいだ、その「抵抗」がなかったら今頃何もかもうまくいっていたのに、と思います。そう思う気持ちはわかります。私も同じ立場ならそう思うかもしれません。

では、気持ちではなく、事実はどうでしょう。本当に友達やオーナーのせいで、うまくいかなかったのでしょうか。

私は、何かうまくいかないことが起こった時、とりあえずその原因を自分の過去に求めるように努力しています。言い換えれば、今現在自分がここでこうしているのは、全て自分が選んできたその結果だ、と思うようにしています。

事実、誰かに脅されて何かをしたとか、誰かに無理やり引っ張られてどこかに連れて行かれたとかいう経験は、ほとんどありません。つまり、自分の意志でここまで来たということです。

過去には、信用していた人間に大切な約束を反故にされたこともあります。相手ははじめから約束など守る気がなかった人でした。でも、そこには相手を信用しようと決めた自分がいたのです。はっきり言うと、無知で経験不足の私がいたのです。なにも、脅されて無理やり約束をさせられたわけではなく、自分で決めたのです。

人は常に瞬間瞬間を、何らかの選択をしながら生きているといえます。

イメージとしては、自分の前方に右、左、真ん中などと2次元的に選ぶ道があるだけではなく、自分自身は広大な空間に存在していて、次の一歩は、例えば、右斜め上とか左斜め下とか好きなところに踏み出せる、3次元の選択肢があるイメージです。つまり、無限の選択肢があって、次どこに向かうのかを瞬間瞬間に自分自身で決めて生きている感覚です。

例えば、私は今このブログを書き続けてもいいし、書くのをやめてネットサーフィンを始めてもいい。記事を書き上げてからパンを食べてもいいし、友達に電話してもいい。その食べるパンは、今家にあるものでもいいし、買ってきてもいい。電話する相手は、A君でもいいし、Bさんでもいい。相手が電話に出なければ、切ってもいいし伝言を残してもいい。なんとなくテレビを見てもいいし、散歩に出かけてもいい。散歩は、家を出て右に行ってもいいし左に行ってもいい。

仕事場でも学校でもそうです。上司に言われたことを期限までにきっちりやってもいいし、極端に言えばやらなくてもいい。できないと言ってもいいし、自分が受けた仕事を後輩に任してもいい。いつもどおりに学校に行ってもいいし、行かなくてもいい。わからないことを先生に質問してもいいし、しなくてもいい。

非常に不安定な空間、言い換えれば非常に自由な空間にいて、次の瞬間どうするかを常に自分で決めて生きているのです。

極端過ぎると言われるかもしれませんが、たとえ頭の中だけでも、一度こうやって自由に自分の選択肢を広げてみる。

次の瞬間の自分の行動は、無限の選択肢の中から選ぶことができるというイメージを持ってみる。

そして、過去になぜ、自分はその瞬間たった一つのその選択肢を選んで来たのかを考えてみます。

なぜ、上司に言われた仕事は期限までにきっちり仕上げたのか。なぜ、毎日朝起きて学校に行ったのか。なぜ、先生に質問しなかったのか。なぜ友達が行こうといったところに一緒に行ったのか。なぜ、ワークビザを申請したのか。なぜ親の言ったとおりにしたのか。なぜ親の言ったとおりにしなかったのか。なぜ留学に来たのか。なぜ留学に行かなかったのか。

よく考えると、ある瞬間、「そうしよう」と、自分自身で決めた方向に一歩を踏み出した自分がいたことに気がつきます。

過去の次は今と次の瞬間を考えてみます。なぜ今私はここでこうしているのか。次の瞬間、どこに一歩を踏み出すのか。右か、左か、右斜め上か。そしてその次の瞬間は。左か上か下か。それはなぜか。

今現在の自分の場所を変えることができるのは、自分だけです。なぜなら、自分だけが次の一歩をどこに踏み出すのかを決めることができるからです。

次どこに向かうのかを最後の瞬間に決めるのは自分です。そうやって生きてきたのですし、そうやって生きていくのです。

いろんな理由は後からつけることができます。周りの人が自分をそうさせたと言うのは簡単です。あの人が言ったからこうしたのだ。あの人が何もしてくれなかったからこうなったのだ。でも、実際によく考えてみると、全ての瞬間、次の一歩をどこに踏み出すのか、自分で決めてきたのです。

私は、今あまりよくない状態の人に、結局自分が悪いのだといっているのではありません。「良い」「悪い」という基準を持ち込むのではなく、単に、今現在自分がここに「在る」のは、今まで自分自身で選んで来た過程の一つの結果だ、ということです。その結果が、良いのか悪いのか、楽しいのか悲しいのか、それはまた別の問題です。

ただ、今現在自分がここに「在る」為に、数え切れないくらいの選択があり、その選択は他でもない自分自身で決めてきたものだということです。

今自分がここにいて、こんなことをしているのは、自分が選んで来た結果で、次の瞬間どこに行くのかは、実は無限の選択肢の中から選ぶことができるのだ、とたまには考えてみてもいいのではないでしょうか。