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例えば、日本語を話す両親のもとで日本で生まれ育つ子どもが日本語を習得していくとき、まず、耳で聞いた言葉を覚えていく。最初に理解する「ことば」は、音として頭に入ってきた「ことば」だ。

だから、例えば、赤くて丸い果物が「りんご」という「ことば」で表されることを覚えるということは、「りんご」という「ことば」を音で聞いて、赤くて丸い果物を頭の中でイメージすることが出来るようになる、ということだ。この段階では、音で聞いた「ことば」から、ある映像なり印象なり感情なりをイメージする、あるいは、その逆で、ある映像なり印象なり感情をある「ことば」で表現出来るようになる、という行為が、「ことば」を覚えるということだ。ある音としての「ことば」と、ある映像や印象や感情が、基本的には一対一で対応している。

だから、鳥を見て「とり」と言ったり、「りんごを取ってきて」と言われれば、いく種類かの果物が入ったかごから赤くて丸い果物であるりんごを取ってくることが出来るのは、ある映像や印象や感情と、ある「ことば」の「音」とが直接リンクしているからこそ出来る。

子どもは、一度、ものや感情をことばで表すことが出来るとわかったら、どんどんそのことばを増やしていこうとする。ただ、この段階ではまだ、「ことば」は音として全て耳から入ってくる。そして、最初はものの名前と、音としての「ことば」の一対一の対応を覚えて行くのだけれど、次は、動き、状態、感情などどんどん抽象的なものも「ことば」で表すことが出来ることに気づき、例えば、美しいとか寂しいとか、走るとか書くなどの「ことば」も覚えていく。

これが、日本語に限らず、ある人が母語であることばを習得していく最初の過程であると思う。

そして、次のプロセスは、「ことば」は音だけではなく、「文字」で表すことが出来るということを覚えることだ。私は、この「音としてのことば」と「文字としてのことば」の習得の間には、大きなステップがあるように思う。

「音としてのことば」を覚える段階では、ある映像や印象や感情と、ある「ことば」の「音」とを、頭の中で直接リンクさせている。そこにあるのは、音と、映像や印象や感情の2種類であって、「文字」はない。りんごを見て「り・ん・ご」あるいは「林檎」という「文字」をその映像に結びつけるのではなく、りんごという「音としてのことば」と映像を直接結び付けている。

でも、「文字としてのことば」を覚え始めたら、まず、「りんご」という文字を読んで、赤い丸い果物であるりんごの映像をイメージすることが求められるし、りんごを見てそれを文字で表現するときには、「り・ん・ご」という文字を書かなければならない。つまり、文字を覚えるということは、ある映像や印象や感情と「文字」とを頭の中で一対一に対応させるということだ。そして、もともと頭の中ではある映像や印象や感情と「音としてのことば」が一対一で対応しているので、文字を覚えた段階で、「ある映像や印象や感情」と「音としてのことば」と「文字としてのことば」の3つがリンクされることになる。

私は、言語を習得するプロセスとして、まず、「ある映像や印象や感情」と「音としてのことば」をリンクさせることから始めて、その後にその2つのリンクに、「文字としてのことば」を第3のリンクとして結びつけるというステップを踏むことが大切なのではないか、と思う。それは、母語の習得でもそうだし、第二言語の習得でも、まず、「ある映像や印象や感情」と「音としてのことば」をリンクさせることから始めるのがいいと思う。なぜなら、人が言語を習得していくプロセスとして、「文字としてのことば」よりも先に「音としてのことば」を習得するように出来ているように思うからだ。

最近は、例えば、2歳児にあいうえおを早めに習得させる親御さんもいるようだが、それには私はどちらかといえば賛成ではない。なぜなら、2歳児はまだ「ある映像や印象や感情」と「音としてのことば」をリンクさせている段階で、そこに「文字としてのことば」を第3のリンクとして結びつけるには、まだ十分な2つのリンクが出来ていないと思うからだ。まず、十分に「ある映像や印象や感情」と「音としてのことば」の2つのリンクを頭の中に作ってから、そこに「文字としてのことば」を第3のリンクとして結びつけることが大切で、そのほうが逆に、文字の習得も比較的スムーズに行くのではないか、と思う。

また、日本の英語教育は、最初から「ある映像や印象や感情」と「文字としてのことば」を2つのリンクとして結びつけるところから始めることが多いように思うが、出来ることなら、英語の習得においても、「ある映像や印象や感情」と「音としてのことば」を最初にリンクさせるプロセスを十分に踏んでから、そこに「文字としてのことば」を第3のリンクとして結びつけるのが、言語の習得の自然なプロセスに沿っているのではないか、と思う。

そういう私自身も、中学校で英語を学んだときは、いきなり教科書の英語の文字を読みながら、りんごはApple とか車はCar とかいう授業を受けたし、英語のテストは、全て文字で表現しなければならなかった。だからかどうかはわからないが、おそらくそういう英語の習得の仕方をしたことも大きな原因となって、例えば、りんごを見て英語で表現しようとするときに、音としてのApple とともに、頭の中にApple という文字が浮かんでしまう。だから、りんごが3つあっても、Apples と「s」をつけることが難しい。それは、頭の中に単数形の「Apple」という文字が浮かぶからかも知れない。

また、ニュージーランドの人と話をしている時、聞き取りにくい単語があれば、「それはどう書くのか」と聞いて、音ではなく文字としてその単語を理解しようとすることも多い。

そう考えてみると、日本語を使っている時は、例えば、りんごをみても「りんご」という音は出てくるが、「り・ん・ご」という文字は頭の中に浮かんでこない。それは、もともと最初にりんごという「ことば」を覚えたときに、まず、「音としてのことば」のりんごとりんごの映像の2つをリンクさせて覚えたからだと思う。そして、その後に、「文字としてのことば」である「り・ん・ご」を第3のリンクとして結びつけたので、りんごを見ても「りんご」という音は出てくるが、「り・ん・ご」という文字は頭の中に浮かんでこないのだろう。

昨年12月22日に文部科学省が発表した平成13年度の新入生から実施する高校の学習指導要領の改訂案では、「英語の授業は英語で行うのが基本」と明記されているそうだ。これは、英語の授業中に、英語を文字で理解することを優先するのではなく、音で聞いて理解することが本格的に取り入れられる、ということだと思う。これは、「ある映像や印象や感情」と「音としてのことば」を最初にリンクさせるプロセスを十分に踏んでから、そこに「文字としてのことば」を第3のリンクとして結びつけるのが、言語の習得の自然なプロセスに沿っているのではないか、という私の考えと一致する部分だ。だから、もし本当に、全ての高校で教師の立場からも生徒の立場からも、英語で行われる授業をスムーズに行うことが出来るのであれば、という条件付で、基本的にはこの案に賛成だ。

だから、まだ小学生やせめて高校生の年齢のうちに、英語圏での留学を経験して、「ある映像や印象や感情」と「音としてのことば」をリンクさせることが出来る環境で、徹底的にそのトレーニングを受けることが出来れば、英語の習得も早くて確実なのではないか、と思う。