みんながしているという行動基準

先日、日本から来た女子高校留学生と話をしていたら、こんなことを言っていた。
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日本にいたときは、みんな同じ格好をしていた。同じ髪型で同じ服装で同じようなものを持って歩いていた。ある日、自分の母親に「あんたと思って声をかけたら違う子だった。」と言われたそうだ。母親でさえ間違えるほど、皆同じ格好をしていた。

母親が自分の娘と思って声をかけたら違う子だった、というのは、果たして笑い話だろうか。くすっと笑った後すぐ、ちくっと引っかかるもを感じる。そしてその引っかかるものがなかなか取れない。

その留学生は、ニュージーランドでは、自分が好きな格好をしていればいいので楽だ、とも言っていた。日本では、ある程度無理をしてみんなと同じ格好をしていたのだろう。無理をして同じ格好をしていたタイプだから、ニュージーランドに留学に来るという選択肢を選んだのかもしれないけれど、自分から積極的にみんなと同じ格好をすることを楽しんでいる人が、日本で大多数だとも思えない。みんなある程度無理をしながら、人を見て、同じ格好をしているのだと思う。

海外に留学に来ると、「みんな」同じと思っていたことが、実は自分が暮らしていた限られた範囲のことだけだった、ということに気づくことがある。「みんな」は決して「世界中のみんな」ではなく、日本の国内の、自分の周りのことに限られている。そして外から日本を見ると、日本国内では「みんなしている」ことが、世界中では「日本だけしている」こともある。

みんながしている、という行動基準は、思っているほど確かなものではないのだと思う。

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