どこかで線を引く

何かを手に入れたら、それだけで満足することはない。必ず他のものがどんどん欲しくなる。

車、電化製品、服などどんどん新しいものが欲しくなる。ニュージーランドの永住権が取得できたら、もっと収入のいい仕事が欲しくなる。お金がたまればもっと大きな家が欲しくなる。

きりがない。きりがないけれど、社会全体で考えると、一人ひとりのこの欲望がなければ、経済が活性化しないし、科学の進歩も遅くなるかもしれないし、モティベーションも持てないかもしれない。だから、きりがないこの欲望は一概には悪いこととは言えない。

でも、個人レベルで考えると、常に何かの「もの」を欲している、いつも何かを手に入れようとしている、そして手に入れたものをずっと持っていたいと感じている、というのは、疲れる。疲れるけれど、この欲望をこれでもかと刺激されれる環境に暮らしているし、一度手に入れたものを簡単に捨てる気にはなかなかなれない。そして結局、今持っているものをキープしながらさらに新しいものを手に入れようとして、体も心も疲れてしまう。

どこかで線を引くことが必要だ。

例えば、貯金は3ヶ月間くらい食べていけるだけあればいいとか、服は着られるものがあれば新しく買わないとか、車も安全に走れば乗り続けるとか、永住権があれば収入は最低限あれば満足するとかだ。この線引きは個人個人で違うだろう。ある程度のところで引く必要がある。ただ、「ある程度」というのを決めるのがものすごく難しい。

それならいっそうのこと、一度、今、自分が持っているものを全てそぎ落としてみて、「自分が持っているもの」と「自分自身」の間で線を引いてみるのもいいのではないか。今持っているものを、全て捨てたときに残るものと、そうでないものの間で線を引く。

そして、自分が持っているものが全てなくなったことを想像してみる。お金も、家も、電化製品も、車も、永住権も、自分が持っているものが全てなくなったとする。でも、自分自身の健康な体や気持ち、経験や技能、能力などは残る。それは自分が持っているものというよりは自分自身だからだ。

その時、全てなくなったと仮定した自分の持っていたものを、最後に残った「自分自身」でこれからもう一度手に入れることができるだろうか、と考えてみる。もし、もう一度手に入れることができると思うなら、今持っているものは別になくなってもいいもと言えるかもしれない。もともと自分自身で手に入れてきたものなら、ほとんどのものはもう一度手に入れることが可能だろう。

反対に、もし、自分が持っているものが全てなくなった時に、それらをもう一度手に入れることが自分にはできない、と思うのなら、今まず手に入れなければならないものは、車や電化製品や永住権ではなく、なくしたものを手に入れることができる自分自身の能力や気力なのではないだろうか。

自分自身と自分の持っているものの間で線を引き、持っているものが全てなくなっても、もう一度自分でそれらを手に入れることができる、ということを確認しておくことは、自分自身を見つめることにもなるし、自信にもつながるし、きりのない欲望をコントロールするきっかけにもなると思う。

持っているものを全て失うということは、実際にはほとんどの人は経験しないだろう。けれど、ある程度のものを手に入れてさらに何かが欲しくなってきたときに、自分自身と自分が持っているものを明確に分けて考えるという作業を行なうことは、大切なことではないかと思う。

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