小説の舞台

小説を読むのも映画を観るのも好きだが、最近はどちらかと言えば小説をよく読む。本を読むのは10分くらいの時間が空けばできるが、映画はある程度まとまった時間と空間が必要なので、なかなか観ることができずにいる。

小説は英語ではほとんど読めないので、もっぱら日本語の小説を読むことになる。だからほとんどの場合小説の舞台は日本だ。

子どもの頃からそうだが、小説を読んでいてなぜだか少し引っかかるのは、物語全体がフィクションにもかかわらず、出てくる地名や建物の名前が実在していることだ。そんなことは当たり前だと仰る方もいるだろうし、全く気にならないという方も多いかもしれない。でも、私はへそ曲がりで天邪鬼で、マジョリティと言われる方々と感覚が少し異なるところがどうもあって、小説の舞台の現実的な名称がどうしても気になってしまうのだ。

例えば、東京都杉並区高円寺の六階建ての新しいマンション、などというものが小説に出てくるとする。日本には実際に東京都がありその中に杉並区があって、当然高円寺という地名もある。そして高円寺にはきっと六階建ての新しいマンションもあるのだろう。けれど、そのマンションには、小説の主人公は絶対に住んでいないだろうし、そのマンションの近くの公園の滑り台に、登場人物が実際に上ることはない。なぜなら、地名やマンションは実在しているが、主人公や登場人物は架空の人たちだからだ。

だから、高円寺という場所を思い出すときは、私は東京は不案内なので具体的に頭に思い浮かぶことはないが例えば思い出すとすれば、それらの風景は実際のものであり、今その小説を読んでいる瞬間にも日本に実在するものだ。でも、ひとたび小説の中の登場人物がその場所で動き出せば、それは架空の物語となる。だから、実在の舞台と架空の登場人物のギャップがとても気になるのだ。例えて言うなら、実写の映画の中でアニメの主人公が動いているような感じだ。あるいは昔のSF映画のように、いかにも後からはめ込みましたという映像を観ているようだと言ってもいいかもしれない。

そして、実在する舞台の描写が正確であればあるほど、架空の登場人物たちとの差異が鮮明に浮かんでくる。それは、実写の映画の中のアニメの境界線がくっきりと浮かび上がってくるように。また、はめ込みの特殊撮影の影の方向が微妙に違うように。

だから、小説の舞台は行ったことがない場所のほうが読んでいて物語に入り込みやすい。高円寺をあまり知らないからこそ、空に浮かぶ二つの月もすんなりと受け入れられるのだ。

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