データで保存するということ
先日、日本のレンタルサーバー会社で大規模な障害が発生して、顧客のデーターが消失してしまった、というニュースが報じられていた。
何年か前からクラウドコンピューティングが流行りだして、そして今ではかなり普及していて、写真や動画、そして仕事やプライベートのデータなどを、どこかのサーバーに保存して使う、ということが一般的になってきた。
今までは、自宅や仕事場のパソコンに保存していた写真やデータは、外付けのハードディスクやDVDなどにコピーしたりしてバックアップを取っていた人も多かっただろうし、今でもその方法もまだ一般的だと思う。でも、クラウドコンピューティングの場合はおそらく、クラウドのサーバーのデータがいわゆる元データ(バーチャルではない言葉で言えば原本)で、それを自宅や会社のパソコンやハードディスクにバックアップを取る、という、言わば今までとは逆方向のバックアップ方法が取られているようだ。
だから、一度今回のようなレンタルサーバーでの障害が起これば、「元データ(原本)」が一瞬で失われる。しかも、レンタルサーバー会社で火災や地震などが起こってサーバー自体が物理的に壊れたわけではなくて、プログラムの記述漏れによって大きな障害が起こったようだ。つまり、見た目には何も壊れていないのに、データだけがなくなった、という状態だ。
こういうことがあると、クラウドという方法そのものに疑問が湧くし、やっぱり目の前のハードディスクが安心、と感じる人も出てくると思う。
少し昔の話だが、写真はすべてフィルムのカメラで撮っていた時代があった。そしてフィルムを現像に出して、データではなくて物理的な「写真」をアルバムに入れて保存していた。だから昔は今のように、好きなだけ何枚も何枚も同じ場所で写真を撮ることなどできなかったし、撮った写真は現像するまでどんなものか見ることもできなかった。今と比べると、本当に不便だった。
でも、昔の写真は、プログラムのミスですべてを消失してしまったり、ハードディスクの破損でなくなってしまったり、パソコンを買い換えるときにコピーや消去をしなければならなかったり、そんなことは絶対になかった。目の前の写真を大切に手元に保管しておけば、多少色はあせるけれど、何年たってもアルバムをめくってみんなで眺めることができた。写真を、遠くにいる人と共有したり、世界に向けて公開したり、簡単にコピーしたり、バックアップを取ったりすることはできなかったけれど、顔も名前も知らない誰だかわからない人のプログラムのミスで、大切な写真が目の前から消える、などということは絶対になかった。
今回のニュースを見て、データという目では見えないものを、しかも自分ではない誰かが運営管理するサーバーに保存する、ということに対する不安を強く感じた。そしてまた、昔と比べてどんどん便利になっていく世の中は、本当にすばらしい未来に続いているのだろうか、という不安も、少なからず感じた。
(Kickoff-T)
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