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昨日このブログで、「技術が進めば、人が英語を習得することが求められる時代は一時的であって、それ以降の時代は、機械が全てやってくれる時が来るかもしれない。だったら今、英語を勉強する必要が本当にあるのだろうか。」と書いた。

今はまだ、「そんな時代が来るだろうか」と私自身半信半疑の部分もあるが、例えば、長いスパンで考えて30年後には、携帯電話が自動翻訳機の役割を果たす時代がほぼ間違いなく来ていると思う。

でも、そんな時代が来たとして、自動翻訳機さえあれば、日本以外の国で日本以外の人達と、友達になったり、一緒に学校に行ったり、一緒に生活をしたり仕事をしたり、プロジェクトをスムーズに行ったりすることができるだろうか、というと、答えはおそらく、No だろう。

それは、英語がネイティブ並に話せる日本人でも、海外に行ってそこの人達と一緒に生活し、仕事をするのは、いつでも誰でもがうまくできるわけではない、ことと同じだ。つまり、いくら英語ができるからといって、海外でスムーズに生活や仕事ができるわけではない。

何故だろうか。

それは、たとえ英語ができたとしても、日本で生まれ育った人とそうでない人とでは、文化も違うし、考え方も違う、というのが大きな理由だろう。例えば、日本で常識と言われていることでも、ニュージーランドではほとんどの人が常識とは思っていないこともある。逆もまた当然しかりだ。また、英語を共通語として問題なく使えたとしても、お互いの文化の違いや考え方の違いを理解せずに、一つのプロジェクトを一緒にスムーズに行うことは難しいだろう。例えば仕事中議論をしても「何故この人はこんな突飛なことを言うのだろう」とか「何故ニュージーランドの人は、私が当たり前と思って主張していることを、全く理解してくれないのだろう」と感じることがあるだろう。英語という共通語を完璧に使って話をしているのに、全く理解できない、全く理解してくれない。言葉が通じても、考え方や感じ方は通じない。そんなことが、たくさんあるに違いない。

それは、言葉の壁ではなくて、文化、考え方、感じ方、常識などの違いの壁だ。

英語という言葉は、単にコミュニケーションの道具であって、コミュニケーションそのものではない。コミュニケーションをスムーズに行うためには、コミュニケーションを行う相手の、文化、考え方、感じ方、常識、バックグラウンド、歴史、環境、教育など、様々なものを理解する必要がある。それらの理解なしに、流暢な言葉だけで物事をうまく進めることなどできない。

そして、日本以外の人達のことを理解するためには、やはりその場所に実際に行って、そこの人達とまず一緒に生活をしてみることが必要だ。どちらかと言えば、そのときに言葉ができなくても、そこに入っていって、一緒にいろんなことを経験する、ということの方が大切だと思う。共通の言葉よりも、共通の経験から理解が深まることも多い。

そして、日本以外の場所で、日本以外で生まれ育った人達と一緒に生活することで、まずは、日本で生まれ育った自分の考えや感じ方、常識といったものが、日本を出たら全く通じない、という経験をする。そこが、相手を理解するスターと地点だと思う。つまり、自分の常識が覆えされる経験をして初めて、世界には常識が異なる人々がいることを知り、そういう人達を理解する必要があることを学ぶのだ。

英語さえできれば世界中で活躍できる、というのは幻想だ。英語という道具も当然必要だが、それ以上に、自分の常識と異なる常識を持っている人の存在を知り、コミュニケーションの相手を理解する必要性を感じ、そして相手を理解しようと努めることが、より重要なのだ。