受け入れるということ
ニュージーランドで暮らして15年。ニュージーランドで学んだこと、というより、ニュージーランドから教えてもらったことがたくさんある。
その中の一つはやはり、「受け入れる」ということだ。これは、私がもしずっと日本で暮らしていたら今のようには学べなかったであろうし、私がニュージーランドに来てから学んだことの中でも最も大切なことの一つだ。
ニュージーランドに旅行や留学で来た人がよく、「ニュージーランドの人は優しくて丁寧だ」などと言う。私も最初にニュージーランドに来たときはそう感じたし、実際にニュージーランドの人は優しくて、そして丁寧だ。でも、しばらく暮らしていると、その優しさや丁寧さの後ろに、何か大きな原則というかルールというか、そんなものが存在していることに気がつく。それは一体なんだろうか、といろいろと考えていた。そしてある日、そうだ、と思ったのが、この「受け入れる」ということだ。
ニュージーランドの人達は、「受け入れ」ていたのだ。そして、私がニュージーランドの人と接するときに感じる彼等、彼女等の優しさや丁寧さの後ろには、この「受け入れる」という態度があったのだ。つまり、私はニュージーランドで暮らして、ニュージーランドの人達に「受け入れ」られていた。
受け入れる、とは、自分と異なる誰かの存在、周囲と異なる誰かの存在、自分と異なる他人の意見や感情や行動、そして他人と異なる自分自身、などを、一旦無条件で、了解する、承認する、理解しようとする、ということだと思う。了解、承認、理解という言葉ではニュアンスを正確に伝えられないのかもしれないが、とりあえず拒否はしない、というとわかりやすいのかもしれない。
ニュージーランドはもともとマオリの人達の国だったが、そこに白人が移住してきてバイカルチャーの国になった。そして20世紀の終わり頃には、アジアを中心に移民がたくさん入ってきて、マルチカルチャーの国になった。つまり、多様な民族や国民が一つの国に暮らしているということだ。だから、自分が持っている文化やバックグラウンドや常識といったものと、極端に言えば、隣に住んでいる人の文化やバックグラウンドや常識が大きく異なる、という状況が、日常的に存在する。
そんな状況で、いちいち他人の存在や意見、感情や行動を拒否していたら、生きていけない。ニュージーランドの人達が「受け入れる」人達として生きているのは、この国の多様性から来ているのかもしれない。
あるいは、多くの人達がクリスチャンであることも、その原因かもしれないし、ニュージーランドの歴史がそうさせているのかもしれない。でも、原因は何であれ、今現在のニュージーランドの人達が、「受け入れる」人達であることは、間違いないと思う。
受け入れる、というと、例えば、自分のわがままを全て認めてくれるとか、自分の意見を通してくれる、と思う人もいるかもしれないが、ここでいう「受け入れる」とは、決してそういう意味ではない。
ニュージーランドの人は、一旦無条件で、了解、承認、理解しようとしてくれる。しかし、彼等、彼女等は、受け入れて、それから、それに対して、彼等彼女等の意見、考えをそれにぶつけ、そして判断を下す。一旦無条件で受け入れてから、それに対して考えるのに、時間をかける。時間をかけて判断する。その時間は、おそらく、一旦受け入れたものに対して、その文化やバックグラウンドや常識といったものを吟味しているのだと思う。
だから、受け入れるというのは、全てを認めてもらえるということではない。ニュージーランドの人達は一旦受け入れたものに対しても、自分なりの反対の意見や感情を持つこともあるし、最終的に、やっぱり受け入れない、と判断することもある。でも、最初は拒否せずに、「受け入れる」のだ。
これは、言葉で書くよりも実践するのは非常に難しい。私もそうだが、自分の持っている文化やバックグラウンド、常識と異なる人々、意見、行動に出くわすと、反射的に最初に「拒否」してしまう。自分と異なる誰かの存在、周囲と異なる誰かの存在、自分と異なる他人の意見や感情や行動、などを、自分の中に最初はとりあえず受け入れる、ということができるようになるには、やはり訓練が必要だ。
そして多様性ということを突き詰めて考えれば、人はひとりひとり違う、というところまで行き着くだろう。それは一般的にいう多様性とは少し意味が異なるのかもしれない。でも、「受け入れる」という観点から考えたときに、人はひとりひとり違う、だからその違いに注意を払い、その違いをそれぞれの人が一旦「受け入れる」と考えることは、非常に大切なことなのだと思う。
キックオフNZのSNS