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「信じる」 ということは、思っている以上に、とても大切で、とても難しいことだと思う。

何かを信じるというとき、そこには考えるべきものが二つあって、一つは何を信じるのかという、その信じるべき対象。もう一つは、もちろん信じるという行為そのものだ。

信じるべき対象というのは、多くの場合は、自分の身近にいる人たちだろう。 自分の家族、自分の仕事仲間、自分のチームメイト、自分の先生、自分の友達、その他、周りにいる人たちだ。

あるいは、自分が所属している社会のリーダーなども、信じるべき対象になるのかもしれない。

でも考えてみると、一番大切な信じるべき対象は、もしかすると自分自身なのかもしれないとも思う。

ある人を信じようとするとき、その信じようとしている自分自身が信じられないのであれば、きっと誰のことも信じることはできないだろう。だから誰かを信じる前には、その信じるという行為をする自分自身を、まずは信じる必要がある。

そして、この「信じる」という行為は、単に信じる対象を疑わないというだけではなくて、もう少し能動的に、その信じる対象に何かを任せてみる、という行為なのだと思う。

何を任せるのかと言うと、もちろん何かの行為を任せるということもあるだろうけれど、その後ろには、自分やチームの将来や運命を任せるということもあるだろう。

つまり信じるという行為は、未来に起こる出来事に対する行為なのだ。

未来はまだ確定していないから、そして予想していないことが起こるかもしれないから、その不確実なものに対して、信じるという行為が生まれる。

そして信じるという行為を妨げるものがあるとすれば、それは予想できないことや不確実なものに対する現在の「不安」なのかもしれない。

もしそうであるならば、「信じる」の反対語は「信じない」ではなくて「不安」ということになるだろう。

そう考えてみると、信じるということは、その一番大切な信じるべき対象が自分自身で、信じるという行為は、自分自身に何かを任せてみるという未来に対する行為で、それゆえに、それを妨げる「不安」という感情が、もう一方に立ち上がってくる、と言えるかもしれない。

では自分の未来を信じることができれば、不安もなくなり、自分以外の信じるべき対象も信じることができるのだろうか。

「信じる」ということについていろいろ考えながら書き始めたけれど、どうにもまとまらないので、またいつかもう一度、「信じる」ということについて考えて書いてみたい。