小学生の頃、未来といえば、21世紀のことだった

小学生の頃、未来といえば、21世紀のことだった。21世紀になれば、そのときとは全然違う世界が出来上がっていると、かなり本気で信じていた。かなり本気で信じていたのは、おそらく私だけではなく、同時代を生きていた友達もそうだっただろうし、その時代の大人たちも信じていただろう。

大人になったら、21世紀になったら、どんな生活をしているでしょう。想像して絵を描いてみましょう。という先生の問いに、素直に、宇宙を旅している風景とか、一人で空を飛んでいる風景とか、ロボットと一緒に生活している風景などを皆描いていた。

2008年8月。すでにアトムが誕生しているし、2001年の宇宙の旅も終わっている、ことになっている。インターネットが当たり前になってテレビ電話などは使えるようになったが、友達で宇宙を旅したという人はいないし、家ではロボットが家事をしていますという知り合いもいない。相変わらず、どこかの国が他の国を侵略したというニュースがトップに出てくるし、チジョウノモツレから人が人を殺め、交通事故は毎日起こり、日本では米を研いで炊飯器で炊いて食べているし、サラリーマンは残業した帰りに立ち飲みやで一杯やっている。もしかすると、大阪ミナミの地下街の立ち飲みやでは、今でも「串カツ二度づけ禁止」という張り紙が貼ってあるのだろうか。そこには、私たちが子どもの頃思い描いていた21世紀という未来はない。過去のある点から現在という点を直線で結んだ間に、想像していたような変化はない。あるのは、繰り返しだけだ。

だとすると、現在と未来を結ぶ直線の間にも、大きな変化はなく、ただ過去からの繰り返しの繰り返しが並べられるだけなのだろうか。今の小学生は、30年後を想像して絵を描きなさいといわれたら、一体どんな絵を描くのだろうか。先生の質問に対して、「何も想像できません」というのだろうか。それとも今でもロボットや宇宙旅行の絵を描くのだろうか。あるいは、今、窓から見える風景をそのまま描きうつすことしかできないのだろうか。

私たちが子どもの頃あると信じて疑わなかった、現在と未来の間に横たわる大きな「変化」。それが「繰り返し」にとって替わられるのならば、未来に夢を持つことなどできるのだろうか。

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