公平と不公平

日本は受験シーズンだ。今が受験の真っ只中という人もいるだろうし、既に合格通知を手にしたという人もいるだろう。

先日、1月に行われたセンター試験。正式には大学入試センター試験と言うらしいが、日本の大学入学を目指す人達が実に52万人以上受験したということだ。今ニュージーランドの人口が約440万人だから、52万人といえば例えばニュージーランドの総人口の約12%にあたる。それだけの数の人達が一斉に同じ日に同じ内容の試験を日本全国で受験した、ということだ。受験生も大変だろうが、実施する人達もかなり大変だ。

そして今年のセンター試験では、試験問題の配布ミスなどのトラブルが多く起こり、ニュースなどによると約7千500人に影響が出たという。

そしてそのトラブルの報道を見ていると、試験問題の配布ミスや実施時間の遅れなどによって、受験生に「不公平」が起こったというものが多かった。確かに、同一問題、同一日程で一律に行うことが前提の全国統一試験で、問題の配布ミスや時間の遅れは不公平感を与えるだろうと思う。ただ、52万人が受験する試験を公平に実施する、ということはどういうことなのか、どうすれば公平に実施されたと言えるのか、ということにまで言及している報道は少なかったようにも思う。

センター試験を「公平」に行うには、同じ問題を、同じ時間内に解ける同じ環境を、受験者全員に与える必要がある、というのは理解できる。だから実施する人達は、できるだけそういう環境を作ろうとする。でも、受験生にどこまで同じ環境を与えることができれば公平で、どこまでなら不公平なのだろうか。

例えば、教室内外からの騒音。特に英語の聞き取り試験などでは他のノイズが成績に大きく影響するので、「公平」に実施するためにはできるだけノイズを排除する必要がある。でも例えば、教室の暖房の音、校舎の外の車や飛行機などの音、もっと言えば、受験者の咳やくしゃみなどの音について、全会場、全受験者に全く同じ環境を作り出すことは不可能だろう。また、試験会場は受験者が選ぶことは基本的にはできないようで、どの会場で受験するかは実施者から指定される。つまり、受験生によっては、家から徒歩10分の会場で受ける人もいれば、1泊しなければ受験できない人もいるということだ。中には、普段通学している高校の校舎で受験できる人もいるようだ。

こうして考えてみると、「公平」が前提のセンター試験も、実際には「できるだけ公平」に実施されていることがわかる。そして、「できるだけ公平に」実施しなければならないのに、「できたのにできなかった」部分だけが「不公平」と言われている。つまり、最初から公平にできない部分があって、その部分には不公平だとわかっていながらみんな触れないようにしている、のだ。ノイズしかり、受験会場しかりだ。

だから極端に言えば、センター試験は最初から完璧に「公平」に実施することなどできない、ということだ。

考えてみれば、高校3年生と浪人生が同じ試験を受けて、同じ土俵で点数の結果を争うというのも、そもそも不公平だ。浪人生は4年間以上勉強するチャンスがあるのに現役生は3年間。その差を全く考慮していないという意味では、こんな不公平はないだろう。また、追試験や再試験も当たり前のように行われているが、これは同じ問題を同じ日時に同じ環境で受験するという大前提を覆す不公平だ。その上、理科や社会で科目間に平均点の大きな差がある時には、得点調整が行われるという。これに至っては、受験生や実施する人達の力の範囲を超えた大きな不公平が存在している。

だから、センター試験はそもそも「公平」に実施されているものではないのだ。同一問題、同一日程、そして同じような環境を作ることで、一見公平に実施されているように見えるが、実際はいろんな不公平が存在している。

そして不公平を前提とするならば、問題の配布ミスというのは、試験が不公平に行わたというとことが一番の問題ではなくて、配布されるべき問題が配布されるべき受験生に配布されるべきタイミングで配布されなかった、ということが問題なのだ。つまり、「他の受験生に比べて不公平」ということが第一の問題ではなくて、「特定の受験生(達)」に予定外(期待されているものと違う)に問題が配布され(されず)、その特定の受験生達がスムーズに受験できなかったことが問題なのだ。

わかりやすく考えるために極端な例を挙げると、例えば、52万人の受験生全員に同時に同じ問題配布ミスがあったとすれば、「不公平」という問題は生じない。けれど、配布されるべき問題が配布されるべき受験生に配布されるべきタイミングで配布されなかった、という問題は依然として残る。この残った問題が、不公平という問題よりも大きいのではないか、ということだ。つまり、問題配布ミスを、全体との比較で「不公平」という基準で問題にするのではなくて、特定の受験生に対してある問題が生じたという基準で考えるほうがいいのではないか、ということだ。そして問題の視点が変わると解決方法もおのずと変わってくる。

これを少し広げて考えてみると、全員「全く一緒」にすることが「公平」で、そうでないことは全て「不公平」である、というのには無理がある、と思う。そもそも、全員全く一緒になどできないのだから、「公平」自体が成り立たない。センター試験も公平に実施されていないことを前提に受験するべきだと思うし、実施する人も、トラブルを報道する人も、公平に試験を実施するということがどういうことなのかをもっと考えるべきだと思う。

「公平と不公平」については、またこのブログでも書いていこうと思う。

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