その評価でいいのか?

留学生と話をするとき、その留学生に対する評価をなにげなく口にすることも多い。

親御さんや学校の先生、スポーツのコーチや部活動の指導者なども、そういうことがよくあるだろう。

評価にはいくつか種類があって、1つは、今同じ時間を生きている、他の人と比較した評価だ。

たとえば、君はあの子よりもこの部分がよくできているとか、あなたは数学は苦手だけれど理科はクラスの中ではトップだねとか、同じ基準で評価を受けるある集団の中で、その人がどのぐらいのポジションにいるのかという、相対的な評価だ。

もう一つは、過去や未来のその人自身と比べて、今のその人がどういうポジションにいるのかという評価だ。その人自身の成長や変化に対する評価とも言える。

たとえば、去年の今頃はここができていなかったのに、今年はできるようになったねとか、今はここが苦手だけれど、きちんと努力すればどんどんできるようになるよ、などという、その人自身の時間軸の中での相対的な評価だ。

我々もそうだけれど、親や学校の先生、スポーツのコーチや部活動の指導者などが、日々口にする評価のうち、8割位は、こういった相対的な評価ではないだろうか。

そういう評価をすることによって、評価を受けた人の闘争心やモチベーションが上がって、やるべきことに集中してしっかりと取り組んで、そして成長していくことも確かにあるだろう。

でも、この2つの評価は、相対的な比較をもとにしているので、プレッシャーを感じてしまう人もいるだろうし、そもそも何かとの比較自体に反発を感じたり、嫌な思いをする人もいるかもしれない。また、限定された範囲での限定的な基準での評価でしかなかったり、年齢や時代によって評価が曖昧になったりもするだろう。

ここで、3つ目の評価を上げるとすれば、同じ時間を生きる他の人との比較でもなく、過去や未来の自分との比較でもない、絶対的な評価があると思う。

たとえば、あなたはここがとてもすばらしいとか、あなたはこんな良いところを持っているとか、あなたの才能に私は惚れ込んでいるとか、そして、あなた自身をとても誇りに思うとか、そんな評価だ。

その人が持っているすばらしい部分や良いところ、またスキルや才能を、誰とも比較をせず、そしてその人の過去や未来とも比較をせず、今のその人が持っているその部分を絶対的に評価する。

そういう評価を受けた人は、絶対的に自分は高く評価されるものを持っているのだ、と感じるだろう。自分が持っているいい部分が、誰かよりもいいとか悪いとか、過去の自分よりもよくなったとか変わらないとか、そんなことではなくて、とにかく今自分はいい部分を持っているのだ、という感覚。

そんな感覚を覚えた人は、きっと、自分に対して絶対的な自信を持っていくと思う。だって、その評価は100%自分自身に向いているものなのだから。そしてそれを誰かが認めてくれているのだから。

25年以上10代や20代の留学生たちを見てきて、私たちももう少しこの絶対的な評価を増やしていくことが必要なのではないか、といつも思う。

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