受験勉強肯定派

私は、どちらかといえば、受験勉強については、肯定派だ。

世間では、例えば、超有名国立大学出身者などは、ずっと受験勉強を何年もしてきて、他の経験をしていないし、受験で点を取る技術ばかり長けていて、社会に出ても受験勉強がマイナスに作用している、という人もいる。確かに、この指摘はあたっている部分もあるかもしれない。
日本の高校入試や大学入試では、定められた時間内に、いかに効率よく問題を解いて、他の受験生よりもより高い得点を上げるか、というテクニックが必要であるし、受験勉強においては、そのテクニックを習得するために、繰り返し何度も何度も、効率よく得点する訓練が施される。また、80%の得点で合格できる場合は、試験時間残り15分で新たな問題に取り組むよりも、解答済みの80%の答えをもう一度見直すことに時間を割くのがよいとされる傾向がある。

しかし、そうだからと言って、受験勉強そのものを否定してしまうのは少し大雑把だと思う。

一つの理由は、大学受験レベルの知識は、社会に出てから必要なものが案外多いからだ。例えば、今世界中で問題となっているチベットの出来事について、中国政府の動き、チベットの人々の行動の理由、宗教の問題、日本の政治家や宗教家の対応、オリンピック参加に向けての世界各国の考え方や言動、聖火リレーをめぐる世界の人々の行動などを考える時、世界史、政治、経済、宗教、スポーツ、文化、メディアなどについての知識が必要だし、それは大学入試レベルに含まれる内容も多いと思う。また、数学の微分や積分などについても、実際に生活していくうえで微分や積分の計算をする機会はあまりないけれど、例えば、積分するという数学的な考え方を利用して、物事を立体的に考えると、生活の中で、あるいは、仕事において理解しやすくなることもあるだろう。言葉という記号を使って頭の中で何かを抽象的に考える、という作業は、数学的な思考力がどれだけあるかによって、どの程度深く考えることができるかにもかかわってくるとも思う。つまり、社会に出てからの、基礎知識や基礎思考力を養うことが受験勉強でできると言えると思う。

もう一つの理由は、受験勉強をやり続けるには、大きなエネルギーが必要だということだ。受験勉強は、自分でどの科目をどのくらいの時間かけるのかを計画し、そのためにどの教材をどこからどこまでやるのかを考え、そして、正解のページがあるのをわかっていながらそれを見ないで、最後まで自力で問題を解く、というような、孤独で、自制心と忍耐、集中力と判断力が必要な作業を、何ヶ月間、何年間という期間、やり続けなければならない。他の友達が、テレビを見たり、遊んだり、昼寝をしたりしている時でも、気が乗らないときでも、しんどい時でも、眠りたい時でも、それらを我慢して、机に向かい続ける気力と集中力が必要だ。

これらの、知識、考え方、忍耐力、集中力、判断力などは、社会に出てから毎日でも必要なものだ。それを養う方法は一つではないが、受験に対する勉強というのも、有効な方法の一つだと言って間違いはないと思う。

超有名国立大学出身者などに、「あなたは、ずっと受験勉強を何年もしてきて、他の経験をしていないし、受験で点を取る技術ばかり長けている」と指摘しても、「確かにそういう部分もあるかもしれないが、私はあなたがテレビを見ているときも、友達と遊んでいる時も、寝ている時も、ずっと一人で机に向かって、孤独と戦いながら勉強をしていたのです。」と言われると、私はその人のやってきたことをやはり評価するだろう。

受験勉強はテクニックに重きを置き過ぎるがゆえの弊害もあるだろう。でも、それを理解したうえで、受験勉強に取り組むのであれば、あまり問題はないのではないかと思う。スポーツに取り組む、芸術に時間とエネルギーをささげる、などと同じように、受験勉強に真剣に取り組むということもすごいことだと思うし、その人がやってきたことを否定することはできない。

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