興味がない、という理由だけで手をつけないことがある

興味がない、という理由だけで手をつけないことがある。

例えば、クリケットはニュージーランドで流行っているけれど、私は興味がないのでテレビでやっていてもチャンネルをすぐに変えてしまうとか、政治経済の問題は大切だとは思うけれど、興味がないので新聞の政治や経済欄は読まないとか、食べることは好きだけれど、料理には興味がないので台所には立たないとか、海外に行く人がいてもいいとは思うけれど、私は海外には興味がないので日本から出たことがないとか、家にベランダはあるけれど、ガーデニングに興味がないので家には植物がないとか、就職活動中だが、興味のない職種の求人は見ないとかだ。

確かに、興味のないことを始めるのには大きなエネルギーが要るし、強いきっかけも必要だ。仕事や勉強などで忙しく他にやることがたくさんあると、わざわざ興味のないことに割く時間もない。

しかし、考えてみると、世界に存在する、世界で起こっている様々な事柄の中で、自分が興味のあることなどほんのわずかだ。無理やり数値で表すとしたら、どんなに多く見積もっても全体の1%くらいのものではないだろうか。そう考えてみると、せっかくこの世に生まれてきて、世界に存在する、世界で起こっている事柄のわずか1%しか見ることが出来ないというのは、寂しい気がする。自分が興味のある事柄の全てに触れられるわけでもないので、実際に生きている間に触れることが出来る事柄は1%よりもっと少ないだろう。

それでいい、という方もいるだろうが、私は生きている間に出来るだけいろんなものに触れてみたいと思うし、そう思っている方も多いと思う。

興味がないと思っていることをいざやってみると、少し続けているうちにその面白さがわかってくることもあるだろう。面白さがわかってくると興味がわいてきて、なぜ今まで手をつけなかったのだろうなどと思う。また、興味がないことに触れてみることで、今まで出会うことのなかったタイプの人と出会うことが出来たり、今まで行くことのなかった場所に行ったりすることも出てくる。今まで使ったことのない道具の使い方を覚えたり、今まで使ったことのない自分の能力を使ったりもする。

そして、興味がないと思っていることをすることで、自分の中に変化が現れることも多い。興味のあることばかりやっている時は、言わば同じような種類の刺激を受けて、同じ色の雰囲気に包まれているようなものだが、興味がないと思っていることに触れると、今までと違う種類の刺激を受けることが出来るし、違う色の雰囲気に包まれることが出来る。そして、その今までと違う刺激や雰囲気が自分を変える。

自分が何をやるのかを選択するときに、興味がある、興味がないという基準を使うのは、非常にわかり易くて簡単だ。興味があるというのは、モチベーションのもとにもなるし、継続力のベースにもなる。

ただ、逆に、興味のないことにはモチベーションが持てないとか、継続できないというのは、おそらく正しくないと思う。それは、単に興味がないという理由で手をつけていなかっただけで、本当に興味がないのかどうか、やってみないとわからないからだ。興味がないという基準は、興味がないと自分では思う、という基準に容易に変化する。やってみて、やはり興味がないというのなら本当に興味がないのだろうが、全く触れたことがないことに対して、興味があるのかないのかは、なかなか自分でもわからない。

せっかく生まれてきて、生きていて、いろんなものに触れることが出来る環境があるのならば、自分は興味がないと思っている事柄にも、たまには触れてみるのもいいのではないかと思う。全ての事柄がそうだとは言わないが、中には、「これ、いい。」と思うものもあるかもしれない。

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