少し考えてみれば

私達は毎日、ほんとうに多くの情報に囲まれて暮らしている。そして、意識的にせよ、無意識にせよ、それらに触れて、それらを判断して、それらを取り込んで過ごしている。たくさんの情報に触れて、それらを取り込もうとする時、情報の量が多ければ多い程、できるだけ単純化して理解しようとする傾向にある。
そうしないと、たくさんの情報を処理できないからだ。そして、単純化の方法として、善か悪か、好きか嫌いか、正解か不正解か、楽しいか楽しくないか、上か下か、先か後か、右か左か、得か損か、などのいわゆる二元論的な基準を持ち込むことが多い。

この二元論的な基準を使うと、情報の処理が早くて簡単になる。決断もしやすくなるかもしれない。例えば、ニュージーランドにどのビザを使って、どのように留学するのかを考える時、楽しいか楽しくないかという基準を使えば、ワーホリが楽しい、という結論になるかもしれないし、得か損かという基準で考えれば、学生ビザが得と考える人もいるだろう。また、例えば、ワーホリで日本語中心の環境で働くことが良くないと考えれば、他の「良い」方法を見つけなければならないだろう。

しかし、現実は、善か悪か、好きか嫌いか、正解か不正解か、楽しいか楽しくないか、などの二つに一つではっきりと区別できることは、意外と少ないように思う。少し考えてみれば、善くも悪くもない、好きでも嫌いでもない、正解か不正解かなんとも言えない、などということも非常に多い。

この「少し考えてみれば」ということがとても大切なことだと思う。多くの情報を処理する時、二元論的な基準でカテゴリー分けをして、そのカテゴリーに沿って判断することは、迅速に物事を処理するには効果的な方法だし、複雑すぎてわかりにくいものに対処する時などは有効な手段だとも思う。でも、一旦二つに一つのカテゴリーに分けてしまった物事は、その内容をもう一度見直す機会を失われてしまうことが多いし、含まれている小さな情報、価値、イメージなどが排除されることもある。

「少し考えてみる」ためには、いろいろな人に会って、いろいろなことを考え、いろいろな価値観があることを知って、自分が善いと思っていたことが必ずしもそうではないことを発見し、嫌いだと思っていたことが好きになり、損だと思うことに挑戦し、正解を求めることがいつも必要ではないことに気づき、といった経験をすることが有効だと思う。そういう、今までの価値観を揺るがすような経験をし、単純化した二元論ではうまく説明できない出来事に触れることで、であった人達、起こった出来事、インターネットの情報、新聞の記事、今の自分、これからの進路などを、できるだけそのものをそのもののままで受け取り、判断し、対処できるようになるのだと思う。

留学に来て、思ったのと違うという人も多い。カルチャーショックを受けてへこむ人もいる。理解できない人がいる、と感じることもあるかもしれない。でも、それは、今までの価値観に刺激を与え、ひょっとしたら単純化してカテゴリー分けしていたイメージを取り去って、そのものをそのもののままで見ることができるいいチャンスかもしれない。

自分の周りにあるたくさんの情報は、実は、非常に複雑で、簡単には捕らえにくいものだ。今は、情報が多いがゆえに、できるだけそれを簡単に、カテゴリー分けする傾向にあるけれど、複雑な情報を複雑なままで受け取り、ゆっくりと自分なりに考えてみるのも、大切なことだし、それもなかなかおもしろいことだと思う。

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