次の1時間自分は何をするのか

経済の用語に、Opportunity Cost (機会費用)というのがあるそうだ。選択されなかった選択肢のうちで最善の価値のことだそうだ。

例えば、25km×25km=625平方kmの正方形の土地を持っていて、そこで何かを生産するとする。最大生産できるものは2種類。例えば、その土地でキウイフルーツの木を植えてキウイフルーツを生産し、さらに、乳牛を飼って牛乳も生産するとする。
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わかりやすくするため仮定として、5km×5kmの25平方kmの土地でキウイフルーツが年間100トン、牛乳が年間10トン生産できるとする。

①キウイフルーツの木を25平方kmで栽培し、残りの600平方kmで牛乳を生産した場合、

年間、キウイフルーツが100トン、牛乳が600/25×10=240トン生産できる。

そして、今度は、

②キウイフルーツの木を①の2倍の50平方kmで栽培し、残りの575平方kmで牛乳を生産した場合は、

年間、キウイフルーツが200トン、牛乳が575/25×10=230トン生産できる。

①から②の条件に変化する時に、キウイフルーツを100トン多く生産するために、牛乳の生産量を10トン減らさなければならない。機会費用という視点から見ると、キウイフルーツを更に100トン生産することを選択したときに、選択されなかった牛乳の生産の最大の量は10トンだということになる。言い換えると、①と②を比較すると、キウイフルーツを100トン多く生産するために、牛乳の生産を10トン犠牲にしている、ということだ。この犠牲にした牛乳の生産10トンが、Opportunity Cost (機会費用)だ。

単純に言えば、もし、キウイフルーツの利益率が牛乳の利益率よりも大きければ、キウイフルーツを多く生産するほうが、効率よく利益が上がるということになる。

経済学では、このOpportunity Cost (機会費用)の考え方はマクロ経済にも応用できるそうだが、このOpportunity Cost (機会費用)の考え方を、ニュージーランドの人々の仕事に対する考え方や生活の仕方に当てはめることができるのではないかと思う。

1日24時間という限られた時間がある。それは、人それぞれに平等に与えられた時間だ。上の例で言うと、625平方kmの正方形の土地にあたる。実際には、24時間をそれぞれの人がいろんなことに使っているのだけれど、単純に仕事と余暇の2つに分けて考えてみる。

まずは、24時間の内、仕事に9時間、余暇に15時間使うとする。次に、それを仕事10時間、余暇14時間に変化させた時、余暇の1時間がOpportunity Cost (機会費用)ということになる。

ニュージーランドの人々は、この余暇のOpportunity Cost (機会費用)に、非常に敏感なように思う。仕事時間を長くすることで収入は増えるが、それによって犠牲にされる余暇のOpportunity Cost (機会費用)を、日本人よりも大きく感じているように思う。言い換えれば、仕事によって失われる余暇のOpportunity Cost (機会費用)は、人生にとっての利益率がはるかに大きいと思っている。仕事1時間によって得ることができる利益よりも、それによって失われる余暇の利益のほうがはるかに大きくて大切だと感じている、ということだ。

日本でサラリーマンをしていた時、ついつい遅くまで仕事をしてしまっていた。それは、仕事を長い時間したというだけではなく、それによって、24時間という限られた時間のうち他のことをする時間を失っている、つまり、人生においてコストがかかっているということだったのだ。

限られた資源の中であるものを選択すると、他のものを失う。そして、失われたものはすべてコストである、という考え方は、時間を24時間と限った場合、あるいは、人生を80年とか100年とかと限った場合には、現実感を持ってあらわれてくる感覚だと思う。

24時間の間に、何か一つのことをすると、他のことができない。できなかったことはコストとして自分の人生にかかわってくる。そう考えると、次の1時間自分は何をするのか、ということを少し真剣に考えるようになってくる。

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