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普通に仕事をして、普通に休暇を過ごして、普通に食事をして、普通にのんびりする。日常生活の中で、ふと気がつくと、全てを効率よくやろう、と考えていることがある。

仕事はともかく、休暇や食事、のんびりするのに、効率も何もないのだけれど、例えば、芝を刈るときにでも、どうにか効率よく芝刈りをする方法なないだろうか、と考えながら芝を刈っている。スーパーマーケットで清算をするときも効率よく清算できるように商品を並べたり、皿を洗っているときもどうにか効率よく皿洗いが出来るようにしようと考えている。手早くきちんと、そんなことを自然に考えてしまう。

日本で高度経済成長期に子ども時代をすごし、バブル期に大学生活や新社会人生活を送った私達の世代は、おそらく、出来るだけ無駄を省いて、何事も効率よくこなすことが良いこととされていた時代を経験している。自分では、そんな時代に影響されているという意識はないのだが、どうしても効率を優先させることを体に刷り込まれているように感じる。

だから、時々、別に効率よくなくても、手早くきちんとしなくても、ゆっくりでも、手順どおりでなくても、遠回りでも、何でも、いいではないか、と言い聞かせて、バランスを取る必要がある。仕事では効率を追求されることも多いけれど、たとえ仕事でも、無駄に感じることに少しだけこだわってみたり、時間を気にせず取り組んでみたり、手順を無視してやってみたりしてもいい。その中から何か出てくるかもしれないし、単に無駄だったで終わるかもしれない。まあ、でも、それでもいいのではないかと思う。無駄かどうかは、時間が経ってみないとわからないし、ものすごく時間が経ってから無駄ではなかったと感じるときが来るかもしれないし。そして、無駄でもいいのかもしれない。そもそも無駄って何だろうか。よくわからない。特に、教育に携わる仕事をしていたり、人に向き合う仕事をしていると、効率や無駄ということばは、あてはまらないことも多い。

この週末、無駄な芝刈り、非効率なレジの清算をしてみようと思う。