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KYという言葉は、もう日本では多くの方が知っているのではないだろうか。言葉というよりも文字といったほうがいいかもしれない。

少し前までは、若者や特別なグループが使う言葉やメディアで流行っている言葉といえば、長い言葉の短縮形が多かった。チョベリバとかジコチューとかアラフォーとかだ。長い言葉を声に出して言うときに面倒なので短縮した、ということなのだと思う。要するに、話し言葉だ。それに比べてKYは、長い言葉を短縮した言葉の一種だろうが、読み方はケイワイで、単なる話し言葉の短縮形とは異なる。携帯電話などで言葉を書く時に使う言葉からきていて、元は書き言葉だからだろう。それが、いつしか話し言葉にも使われるようになっている。ケイワイ。

空気が読めないという意味だそうだ。

そして、今の若い人たちは、KYといわれることを想像以上に恐れていると聞く。先日ある新聞に載っていた調査でも、KYといわれることを避けたいという人が多数を占めているという結果が掲載されていた。

確かに、周りの空気を読むことは大切だ。人と強調して物事を進めていくことはチームワークにもつながる。しかし、過度にその場の空気だけを気にして、それに自分を合わせることは、逆にチームワークにマイナスに働くだろうし、自分自身も楽しくない。

そもそも空気とは何だろう。例えば、5人が一同に会するとき、何がその空気を作っているのだろうか。全員が空気を読み取ろうとしている時、空気を読みとろるとしているという空気になるのではないだろうか。たった一人が出している空気に皆があわせるというのも、時と場合によるだろう。

あるいは、暗黙の了解とか、あうんの呼吸ということだろうか。暗黙の了解という領域は時には必要だと思う。わざわざ説明しなくてもわかること、そんなこともたくさんあるだろう。でも、その暗黙の了解がわからない人も当然いるだろうし、わかっていながら了解できない人もいるだろう。そんな人たちを、一律に、空気が読めない、といって批判、あるいは、排除しようとするのはどうかと思う。

だから、空気が読めなくてもかまわないではないか、とあえて言いたい。空気を読むことばかり気にかけている人よりも、空気なんか読めなくても、自分の空気をその場で強く出している人のほうが、魅力を感じることも多い。

そして、たとえ周囲の誰かが空気が読めなくても、その人の行動や言動を一旦受け入れることも必要だと思う。あいつは空気が読めないという理由でいきなり排除することが一般的になると、どうも間違った方向に行くような気がする。自分達と異なるものを受け入れない。その場の雰囲気を乱すものを排除する。それがあたりまえのように行なわれるようになることが怖い。

だから、KYでいいじゃないか。自分がKYでもその場の誰かがKYでもいいじゃないか、と言いたい。

そして、空気を読むのではなくて、ほんとうは、その場にいる人、一人ひとりの異なった気持ちや考えを読むことが必要だと思う。そのためには、暗黙の了解やあうんの呼吸以外に、言葉や態度でコミュニケーションをとることが必要なのだと思う。