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日本で少し前に、勝ち組とか負け組などという言葉が流行ったように思うけれど、今ではあまり使わないのだろうか。それとももうすっかり市民権を得た言葉になっているのだろうか。

そんな言葉が流行っていた頃は、勝ち組になることがいいことで、負け組にはなりたくない、という人が多かったと思う。あるいは、小中高校生やその親御さんでも、将来は負け組ではなく勝ち組に入りたい、入らせたい、と言う人もいたように思う。

一般的に言って、勝つか負けるかといえば、勝ったほうがいいだろうし、負けるのは嫌に違いない。

でも、少し前に流行った勝ち組や負け組という言葉に私が違和感を感じるのは、人生の目標やゴールが、社会の中での勝ち負け、つまり相対評価になっていることだ。

勝ち組を目指すというのは言い換えれば、勝負をしてそこで「他の人よりも」より多く勝つことを目指すことだろう。このときの勝負には必ず誰か他人がいて、最終的に勝つということは、相対評価でその相手よりも高い評価を得るということだろう。

そしてそんな勝負を何度も何度もいろんな人とした結果、勝ち組と言われるグループに入る。

人生の少なくない時間を、しかも子どもの時から20代くらいまでの貴重な時間を、そんなことに費やして、それでいいのだろうか。

「それでいいに決まっている。人生何事も勝負だ。勝ち続ける人生の何がいけないのか。」とおっしゃる方もいるだろう。確かに、勝負をすれば勝ったほうがいいだろうし、人生他の人との戦いの部分もあるだろう。

でも、いつもいつも他人との勝負に勝ち続けて、その結果勝ち組と言われるグループに入ることだけを考えて若い時期を過ごしていて、楽しいだろうか?同じ土俵に立つ人に対して「もしかしたらこの人とも勝負をすることになるかもしれない」というスタンスで接していると、周りが対戦相手だらけにならないか?

例えば周囲の誰かが困っていたり助けを求めていたりした時に、「自分のことは置いておいて、なんとかその人のためにできることはないだろうか」などと考えていると負けてしまう。勝負に勝ち続けて勝ち組に入るためには、困っていたり助けを求めている人には「大変そうだけれど、ここでかかわると自分が負けてしまう」と傍観するほうが得策だと多くの場合考えるだろう。

そんな態度で生きて行く人生はつまらないだろうし、とてもしんどいだろうと私は思う。

そうやって他人とのいろんな勝負に勝った結果勝ち組に入ったとして、歳を取って自分の人生を振り返ったときに、「私は勝ってきた。勝ち組に入った。幸せだった。」と感じるのだろうか。

「勝ち組」に入るためには、他人と勝負をして勝たなければならない。でも、歳を取って自分の人生を振り返ったときにそこに見えるものは、他人との相対評価ではなく、「自分が」どんな人生を歩んできたか、という自分自身の絶対的な部分だろう。「自分が」自分のことをどう考え、「自分として」他人にどのように接し、自身や他人とどんな時間を過ごしてきたのか。そんなことが見えるのではないか。

「勝ち組」を目指すのも一つの生き方だと思う。でも、歳を取って自分の人生を振り返ったときに、「自分は」どんなことをしてきたのか。「自分は」周囲の人達のことをどう思いどう接してきたのか。そんなことが見えるのなら、他人に勝った結果勝ち組に入るなどではなく、もっと「自分自身の」考え方ややり方、進むべき道を見つめて、それを目指してみるのがいいのではないだろうか。