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金曜日に、5歳の娘が通う小学校について書いた。全校生徒みんなで体操をするときでも、何人かは、あっちを向いたり、こっちを向いたり、座ったり、壁にもたれたりしている。先生も注意をするわけではなく、かといって生徒達も先生の言うことを全く聞いていないわけではない。

何かが根本的に日本と違う。

ニュージーランドは、小学校に限らず社会全体が、「人はひとりひとり違う」ということを前提として成り立っているように思う。私とあなたは違うのです、私たちとあなた達は違うのです、ということが前提だ。そして、他人の違いをとりあえずは受け入れようとする。

簡単に言うと、私と他人は違っていて当たり前だ、ということだ。だから、私と他人は同じ行動をする必要はないし、同じ考えを持つ必要はないし、同じように感じる必要もない。そして、他人が私と同じ行動をしなくてもそれを受け入れるし、同じ考えでなくてもそれを受け入れるし、同じように感じなくてもそれを受け入れる。あるいは、少なくとも受け入れようとする。

先日、街でおばあちゃんと5~6歳のお孫さんが二人で車から降りてきた。おばあちゃんが小さな可愛いコートを手に持ってこう問いかけていた。「あなたはどうしたいですか?」お孫さんが「私は今はコートは着たくない。」と答えると、「わかりました。」とおばあちゃんはコートを車に戻しに行った。

日本ではこれは「わがまま」や「あまやかし」と受け取られるかもしれない。娘の小学校の体操の時間も同じだろう。自分がやりたいことを主張したり、みんなと同じことをやらないのは「わがまま」で、それをほおっておくのは「あまやかし」だと。

でも、それは違うように思う。おばあちゃんがお孫さんに「あなたはどうしたいですか?」と聞いているのは、言い換えれば「あなたが自分で考えなさい」と言っているのだ。そしてたとえ5歳か6歳の子どもでも自分で考えて出した結論なら、大人はそれを受け入れる。おばあちゃんはコートを着たほうがいいと思っていても、本人が着ないことを選択したなら、おばあちゃんはOKと言う。小学校の先生も、「生徒が自分で考えて体操をしないと判断するのなら、そうしなさい」ということなのだろう。

そこで身につく態度は、「自分で考える」という態度だ。そういう態度を常に求められていると、子どもの頃から「自分で考える」重要性を理解して、自分の考えを持つようになる。そして、その考えが人と違っていても、だからといって自分の考えが間違っているとか、それを変えようなどとは思わない。なぜなら、自分の考えは自分で考えたものであり、人の考えと違っていて当たり前だからだ。

そして、子どもの頃に「自分で考える」という態度を身につけたら、少し大きくなれば、今度は「その結果に対する責任は自分で取る」という態度を求められるようになる。自分で考えて判断して行動したなら、その結果起こったことは自分で解決しなさい、ということだ。娘の小学校の生徒達も、コートを着なかったお孫さんも、もう少し大きくなれば、自分の行動の結果起こることに自分で責任を持ちなさい、と言われ始めるのだろう。

つまり、「自己責任」の前の段階には必ず「自分で考える」という態度が必要であり、その前提として、「人はひとりひとり違う」という考え方や社会があるのだ。逆に言えば、他人と同じようにしなさい、と求められる社会の中にいては、自分で考えるという態度を身につけ、その結果に対して責任を持つ、ということができるようになるのは、非常に難しいのかもしれない。