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先日、日本で生まれ育った人は、多少の差はあれども仏教の影響を受けているのではないか、と書いたけれど、仏教の「無常」について少しだけ考えてみたいと思う。

無常とは読んで字のごとく、常ならず=永久不変ではない、つまり、ずっと同じ状態ではない、ということだ。仏教では全てのものは無常だと言うらしい。もしそうであるならば、自分も、他人も、生き物も、目の前のものも、全て無常だということになる。

無常を簡単に考えてみる。

例えば、このブログを読み始めた時の自分と読み終えたときの自分は、全く変わらない「自分」であるように思う。けれど、10年前の自分の写真を見た後目の前の鏡で自分の姿を見ると、その変化、つまり同じ状態ではないことに嫌でも気付く。

過去10年間のある日突然自分がガラッと変化したわけではないのだから、その変化は一年一年、一日一日、一時間一時間、そして一秒一秒に行われていると考えるしかない。だから、このブログを読み始めたときの自分と読み終えたときの自分も変化している、つまり無常であるということになる。

また例えば、ニュージーランドの北島にはワイカトリバーという川がある。ロトルアから100キロほど北にあるハミルトンという町に南から入るとき、このワイカトリバーにかかる橋を渡る。ワイカトリバーを見ていると、そこにワイカトリバーという川があるように見える。言い換えると、ワイカトリバーという固定された川というものがあるように思う。

でも、川だから当然水が流れていて、同じ水がずっと目の前に見えている川に固定されていることはない。常に動いている水、常に変化しているものによって川が川として存在している。川というものも実は無常である。

私の無教養で断片的な知識で説明すると、無常はだいたいこんな感じだ。

世の中には固定化したものは存在せず全てのものは「常に」変化していると考えるのは、今まで目に見えるものを固定化した対象としてしかとらえていなかった人には、感覚的になかなか難しい。けれど少し話をずらして、ある一定の時間を設定して、例えば、一日ごとに変化している、などと考えると、少しはわかりやすいかもしれない。

もし全てのものが無常で、少なくとも一日ごとには変化していると考えるのであれば、昨日の自分と今日の自分は違う自分だ。そう考えると、自分である時間は今日24時間しかないことになる。

そう言った瞬間に無常とは矛盾するのだけれど、無常を元にしてたどってきたこの考え方は、例えば留学生活を送る上でも役に立つと思う。

今日の自分は昨日の自分と違うのであれば、昨日の自分がしたことや言ったことを今日否定してもいいことになる。それをポジティブに使うなら、昨日未熟だった自分を今日成長させることもできるし、昨日落ち込んでいた自分を今日立ち直らせることもできる。だって、違う自分なのだから。

だから、留学生活で昨日英語が聞き取れずに恥ずかしい思いをしたことなど、今日の自分には関係ない。また、昨日Rの発音ができなかったその人は今日の自分とは違う人なのだから、今日はRの発音がうまくできるかもしれない。

今日の自分は明日の自分と違うのであれば、明日の自分など信用できないとも言える。だったら、今日やるべきこと、今日考えること、今日決断すべきことは今日の自分がやってしまって、今日の自分が明日の自分に責任を持つ、と考えることもできる。

だから、留学生活でラグビーのトレーニングは明日しようと思っても、その明日の自分は今日の自分とは違うのだから、トレーニングなどしないかもしれない。また、家族に言おうと思っていることを明日にしようと思っても、明日の自分はそんなこと思い出さないかもしれない。だって、今日の自分とは違う自分なのだから。だったら、トレーニングが必要な今日の自分が今日中にトレーニングをして、家族に伝えるべきことがある今日の自分が今日中に伝えるべきなのだ。

書いているうちになんだかわけがわからなくなってきた。

ただ言えるのは、今日の自分は昨日と違う新しい自分だと考えることで、昨日できなかったことにチャレンジしたり、今日やるべきことを今日中にやったりすることができるかもしれない。また、世の中が急激に変化していく時代に、自分は固定化した存在であると考えて変化に対処しようと動くよりも、自分も無常であり常に変化し続けていると考えることで、今まで見えなかったものが見えてきたり、世の中の急激な変化をどう捉えどう関わっていくのかを少しわかるかもしれない。